Musical Theater Japan

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竹内將人、国際プロジェクトを経て『レ・ミゼラブル』大役を掴む:新星FILE vol.1

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竹内將人 1994年福岡県生まれ。子供のころ劇団ひまわりに所属し、『ライオンキング』ヤング・シンバ等を演じる。東京藝術大学声楽専攻、英国王立音楽院卒業。『アナスタシア』でイポリトフ伯爵を演じる。2021年『レ・ミゼラブル』にマリウス役で出演予定。

最近の舞台で清新な印象を残した新星に“来し方”と“今”、そして“これからの夢”をうかがうシリーズ。第一回は福岡の名子役時代を経て着実に実力を蓄え、国際プロジェクト『We Song Cycle』や『アナスタシア』で活躍、来年は『レ・ミゼラブル』マリウス役も控える竹内將人さんにインタビュー。特に飛躍の契機となった英国王立音楽院での研鑽については詳しくうかがっています!

ヤング・シンバからバスケ少年を経て音大へ

――竹内さんは福岡ドームの近くのご出身とうかがいましたが、そのあたりではかつて、『キャッツ』の福岡初演がありましたね(1990年)。
「まだ生まれていませんでした。なので、『キャッツ』を観てこの世界に入ったわけではありません。僕が3歳の時、人前できちんと話すといったコミュニケーション力をつけられるよう、親が劇団ひまわりに入れてくれまして。主に博多座という、博多の大劇場に子役として出演して、歌舞伎から現代劇、喜劇といろいろ勉強させていただきましたが、その中でも一番ピンときたのがミュージカルでした。当時、演技に苦手意識があり、歌という要素があると充実したもの(お芝居)をお届けできると思えたからかもしれません」

――子役時代には『ライオンキング』のヤング・シンバも演じたのですね。
「中学一年生の時です。既に身長が150cm近くあったのですが、オーディションが8月か9月で、開幕が翌年1月。それだけの短期間でヤング・シンバを育てたことがなかったそうで、(ちょっと大きいけれどまずは)稽古に入るよう言って頂けました。もし身長がそれ以上伸びていたらデビューできなかったけれど、無事、開幕キャストとして出演。他の子たちのデビューが遅く、最初の1週間はシングル・キャストでした。翌週、もう一人デビューしましたが、一日2回公演があるような時は連日の出演で、嬉しかったです。やはり1幕はヤング・シンバが主人公で、ソロも2曲あるし、“ハクナ・マタタ”で1幕終わりにはけていくまで注目していただけますし。学校に行かなくていい、というのも嬉しかったのですが(笑)、2ヶ月ちょいで声変わりが始まってしまって、3ヶ月で卒業しました」

――その後、中学高校を経てまたミュージカルの世界に戻ってこられたのですね。
「ヤングシンバが終わった後は、小学生で始めたバスケをしっかりやっていました。高校は東京にある大学の付属校だったので、その大学の史学科に内部推薦で進もうと思っていたのですが、高2でまた舞台に戻りたくなり、東京芸大(東京藝術大学)を目指そうと思いました」

――受験まで準備期間は1年少し…。短期決戦ですね。
「はい。器楽専攻だと明らかに才能を見られるようなのですが、声楽科では、受験の時点ではまだ声が成熟していない子もいるので、伸びしろを見られるようです。芸大受験を決めてからは、周りに音大志望者はいなかったので、当時ついていた先生と僕とで試行錯誤して臨みました。入学してみると、周りは中学生ぐらいの頃から声楽に傾倒してきた人ばかりで、ものすごく知識がある。僕はピアノもやってこなかったので、全てが新鮮でした」

――先生方からはどんな学びがありましたか?
「技術を学ぶというより、人(としての在り方)を学ぶことが多かったです。先生方は教育者になるために勉強してきたというより、日本のトップの声楽家の方々だったので、こちらから“盗みに行く”感覚でしたね。芸術家って、結局は“どう生きるか”を自分が惚れた芸術で表現する、ということだと思うので、先生方の在り方をよく観察させていただきました」

“のど自慢”を機に、再びミュージカルの道へ

――その間、ずっとミュージカルへの思いは揺らがなかったのですか?
「逆に、芸大にいる間はクラシックをしっかり勉強しようと思っていたので、3年生の途中まではミュージカルの曲は歌いませんでした。2年生の時はオペラ歌手になろうと思っていて、イタリア留学の相談を両親にしたことも覚えています。
それが、3年生の後期に帝劇で開催された、『レ・ミゼラブル』ののど自慢大会(2015年。このページから動画を視聴可)に出場してから、またミュージカルの花が自分の中で花開いたんです。歌ったのはジャベールの“Stars”でした。当時はバリバリの声楽科学生で声が野太かったので(笑)、これぐらいしか歌えるものがなかったんです」

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『レ・ミゼラブル』のどじまん・思い出じまん大会(2015)より。写真提供:東宝演劇部

――みごと読売新聞社賞を受賞。これが大きな契機になったのですね。
「はい、これがきっかけで今の事務所にご縁をいただき、さっそく『レ・ミゼラブル』のオーディションも受けました。受かる筈もない実力でしたが、当時の自分にとっては全力で挑んだので、落ちたことを知った時は行きつけの飲み屋さんで嗚咽しながら泣き、朝まで店長夫妻に励まされたことを思い出します(笑)。これだけ頑張って受からないならミュージカル俳優は向いてない、と投げやりになり、アナウンサー学校の体験に行ったりもしましたが(笑)、3日ほど過ぎて落ちついて考えることが出来るようになり、足りない部分を書き出すうち、まだまだたくさんあることに気づいたんです。

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『レ・ミゼラブル』のどじまん・思い出じまん大会(2015)より。写真提供:東宝演劇部

それに、オーディションの時に英国のスタッフとたくさんお話をさせていただいて、彼らの話を直接くみ取れないのはダメだなと思い、(音大を)卒業後、まず語学留学をしました。NYで3か月英語を学んでから、渡英。3か月くらい個人レッスンを積んだところで、両親が英国に様子を見に来てくれて、一緒にケンブリッジに行きました。忘れもしません、キングス・コレッジのチャペルを訪れた時、父が“こちらの大学で勉強したらどうか?”と言ってくれまして、個人レッスンの先生にご相談したら、彼女が王立音楽院(Royal Academy)でミュージカル科を作った方だったんです。音楽院受験を勧めていただき、入学することができました」

――ミュージカル科は1年制ということで、短く聞こえますが…。
「とても濃い1年でした。音楽院にはクロード・ミシェル・シェーンベルクさんが教授でいらしていて、直接、大切なことをたくさん教わりました。演劇などの授業もありましたが、主に学んだのは“Acting Through the song”、つまり、歌の中でいかにお芝居と音楽を表現するか。一週間で一曲を仕上げるのですが、それにあたり、先生が4人いらっしゃいます。最初はスピーチの先生が、歌詞を一つ一つチェックしながら演技、滑舌の仕方をしっかり教えて下さって、ここでその曲の“波”を作ります。二人目がレパートリー・コーチ/音楽監督。『レ・ミゼラブル』等で活躍されている先生が個室でピアノを弾きながら、ここはこう歌って…と細かくみてくれます。三人目はボイストレーナー。やはり個室で発声をみてくれます。そして四人目がワークショップ形式の授業の先生で、皆の前で演技性も音楽性も含めたものを見てもらうという感じです。

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王立音楽院卒業公演『City of Angels』リハーサルより。Jimmy Power役を演じました。写真提供:竹内將人

こういう形で1年間で歌える曲のレパートリーを増やしていくのですが、それもやみくもに増やすのではなく、ハマースタインから時代を追って、途中でミュージカル・コメディ、『レ・ミゼラブル』のような曲があって、リン・マニュエル=ミランダやDear Evan Hansenまで、一通りの時代の曲が、吟味して選ばれたレパートリーになっています。最終的には40曲ぐらいになったかな。学校を出ると皆、自分が歌える曲のファイルを持ち歩いて、“これらを歌えます”とオーディションでアピールするんです。もちろんそれぞれ得意不得意はあるけれど、歌えませんということにはなりません。僕の場合は、やはり声楽出身なので、ディズニーやシェーンベルク、具体的には『レ・ミゼラブル』や『美女と野獣』を歌うといいリアクションを頂いています」

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王立音楽院ショーケースで「Lucky To Be Me」(『On The Town』)を歌唱。写真提供:竹内將人

――自粛期間中にアップされた歌唱動画からは、画面越しに思いが伝わってきます。

「イギリスでは、生徒が絶対迷わない、これをやっていればあなたの良さが絶対現れる、というメソッドが確立されていたと思います。そこで一曲一曲を丁寧に勉強するうち、迷いがなくなったというのはあるかもしれないですね。日本に戻ってからオーディションに受かったり落ちたりしても、自分にはこういうものが身についている、とポジティブに感じることが出来ていると思います」

“こういうことがやりたかった!”と思えた国際プロジェクト

――帰国して『アナスタシア』に出演後、国際プロジェクトWe Song Cycleで綿引さやかさんと“ふたりのダンス”をデュエット。日本を含む6か国のクリエイターたちが手掛けるソング・サイクルを、やはり国際的なキャストが歌い上げるという企画は、英国帰りの竹内さんにはぴったりだったのでは?
「僕は海外で勉強したので、海外目線も意識した仕事をしたいという気持ちが常にあるのですが、『アナスタシア』は日本初演ということで海外スタッフも来日されていて、留学して(英語が話せるようになり)よかったと思いました。そして“ふたりのダンス”は、アメリカ人役というのも面白いし、プロジェクト自体が国際派。まさにこういうのがやりたかった、とお話を頂けたことを嬉しく思いました」 

――楽曲の第一印象は?
「鳥肌が立ちました。コロナウイルス禍で多くのアーティストが苦しみましたが、僕も『アナスタシア』の大阪公演がなくなり、雨の後は必ず晴れるとわかってはいても、どうしてもネガティブな感情はありました。そんな折にこの曲に出会い、最後の部分に勇気と希望をもらえて、今の自分にとっても必要な曲だ、と思えました」

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「ふたりのダンス」より。

――どんでん返しがあり、瞬時の表現力が求められるナンバーに聞こえます。
「動画の中で演技するって難しいなと思いました。これまで動画サイトには、直立で歌う様子をアップしていたけど、今回はそこに演技も加わって、自分がやりすぎていないか、塩梅が難しかったです。演出の渋谷(真紀子)さんとしっかりお話させていただき、アドバイスをいただきました」

――竹内さん演じるウィルは、来日したバレエ・ダンサー。プリマ・バレリーナのナナから日本語レッスンを受けるうち、仄かな思いが…という役どころです。心細さの表現には、ご自身の留学体験が生きたでしょうか?
「かなりありました。語学学校だと皆が(その国では)外国人だから、互いの英語が聞き取りやすいけど、音楽院では殆どが英国人で若者だから早口だし、北部の人だとアクセントが強くてわからなくて。みな優しくて先生たちも助けてくれるけど、入学当初は最終的な心のよりどころがなくて、夜に一人で泣いたこともありました。食堂にいけるようになったのも3か月くらいたってからで、それまではランチも一人で食べたり。そういう経験があったので、ウィルと自分が重なりましたね」

――竹内さん自身は何がきっかけで克服されたのでしょうか?
「結局は“慣れ”たということなのかな。少しずつ異文化に溶け込んでいったんだと思います」

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「ふたりのダンス」より。

――“ふたりのダンス”の世界観を作り上げるのには、ナナ役の綿引さやかさんから得たインスピレーションもあったでしょうか?
「TV電話のシーンは実際にTV電話しながらの撮影で、それが綿引さんとの初対面でした。もちろん『レ・ミゼラブル』などのご出演舞台は何度も観ていたけど、お話したことはなく、この時初めて“こういう方なんだ”とわかりました。NGを重ねる度に互いの心が開けてきて、彼女のキャラクターに導かれた部分はありましたね。しっかり心を開いて下さったので、その後のシーンはやりやすかったです。綿引さんの笑顔を想像して、ウィルの楽しい気持ちを再現できるような気にもなれたり…」

――本作は現在動画サイトで公開中ですが、今後どう育っていくといいなと思われますか?
「僕がこれから舞台芸術の世界で生きていくうえで念頭に置いているのが、国際化です。今回のWeSongCycleの出演者のなかでは、僕だけ経験が浅いのですが、それでも英語が話せて歌えれば、こういう方々とも共演できるということが、一つのメッセージになればいいなと思います。今もこの状況の中では苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃるけれど、希望はある、諦めないでというメッセージを投げかけられるものが、本来の芸術ではないでしょうか。本作はお客様の希望になりうると思いますし、今、悩んでいる俳優志望の方たちにもそういうメッセージが届けば、と思っています」

目指すのは、“オンリーワン”

――ご自身のキャリアにとっては、どんな作品になるでしょうか?
「自信になると思っています。綿引さんは僕が学生のころから舞台を拝見していた方で、その綿引さんと共演できたことは大きな自信です。それは今後、どんどん膨らんでいくような気がしています」

――ステイホーム期間中はどんなことを考えていましたか?
「僕はもともとポジティブ・シンキングな人間です。コロナの影響で世の中では悲しいことが起こっていますが、その中でもポジティブなことってたくさんあって、SNSでは海外の方々の書き込みをリアルタイムで見たり、家族でない人とも繋がれるし、以前より家族と一緒の時間が増えることで、互いに“こういう一面があるんだ”と新たな発見があったりしたと思うんです。僕の場合、もし身近な人に何か起こったらと想像してはもっときちんと愛を伝えないといけないなと思ったり、海外旅行は難しい分、国内に目が向いて、それまで知らなかった日本の美しさに気づいたり。ネガティブの中のポジティブ、いろいろなものを見つめなおす期間になったと思います」

――『レ・ミゼラブル』2021年公演では、念願のマリウス役で出演されますね!
「英国では帰国後の『レ・ミゼラブル』のオーディションに全てをかけよう!を念頭に置いて留学生活を乗り切りました。この4年間、マリウス役を勝ち取るために努力をしてきたので、僕の中では“努力は実る!”という一つの自信にもなりましたし、ずっとサポートしてくれた家族に一つの大きな恩返しにもなるかな、と思うと感無量です」

――どんな表現者になっていきたいと思っていますか?
「今は世の中がこういう状態ではありますが、それに関わらず、竹内將人の道をしっかり歩んでいきたいと思っています。一言で言えば、目指すのは“オンリーワン”ですね。尊敬する俳優さんはたくさんいらっしゃるけれど、その方々のプロフィールを見てここを真似て…というようなことではなく、僕はまだまだ勉強中の身なので、一つ一つをしっかり習得していって、自分の道を歩んでいけたら、と思っています」

(取材・文=松島まり乃)
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