鎖国によって平穏が保たれていた国・日本が、黒船の来航によって大きく揺らぎ、様々な変化を遂げてゆく様を描くミュージカル『太平洋序曲』。
好評を博した東京公演に続き、間もなく大阪で開幕する本作は約半世紀前、法律家を目指す筈だった一人のアメリカ人青年が初めて書いた戯曲を、プロデューサー/演出家のハロルド・プリンス、作曲家・作詞家のスティーヴン・ソンドハイムが大いに気に入り、3人でミュージカル化したものでした。
今回、久々の日本公演を見届けようと、来日したそのアメリカ人…ジョン・ワイドマン氏に、創作に至る経緯や舞台化の様子、作品のディテール、ミュージカル・クリエイターを志す方々へのアドバイスなど、様々なお話をうかがいました。長編となりますので、じっくりとお楽しみください!
――ワイドマンさんは1976年に本作を書かれたのですね。
「大昔ですね(笑)」
――なぜ日本の開国をテーマにされようと思ったのですか?
「ちょっと長い(笑)話になります。僕は1964年にハーバード大学に入学したのですが、多くの同級生同様、自分が何を学びたいのか、決めかねていました。色々な授業を選択しましたが、そのうちの一つが東アジアの歴史でした。NYの高校ではアジアについて教えられたことは全く無く、日本はもちろん中国や韓国も、まるで存在していないかのようでしたが、ハーバードは米国において、東アジア学で高名な数少ない大学だったのです。受講するうち、毎日新たな発見があり、魅了されました。そこでこれを研究したいと思い、日本を専攻したのです。
数年後、私はロー・スクール(法科大学院)にいましたが、弁護士になりたいという気持ちにはなれませんでした。では自分は何をしたいのだろうと考える中で、戯曲を書いてみることを思いつき、日本の開国についての自分の知識を思い起こしたのです。日本の開国は、アメリカの歴史においては当時全く些細なこととして受け止められていたけれど、日本にとっては巨大なインパクトをもたらしていた。この点に魅了され、私はまず、ミュージカルではなくストレート・プレイの戯曲を書きました。そしてそれを、当時既にブロードウェイで最高のプロデューサーであり演出家であった、ハロルド・プリンスに持ち込むことができたのです。
彼は戯曲を気に入り、プロデュースすると言ってくれました。そして“ストレート・プレイより、ミュージカルのほうが向いていると思うので、スティーヴン・ソンドハイムに相談しようと思う”と確信を持って言ったのです。二人は何度か会って話をし、私もそこに加わり、舞台化がスタートしました。ハル(ハロルド)は以前から惹かれていた歌舞伎や能のテクニックを取り入れたいと考え、僕のアカデミックなバックグラウンドと、彼の演劇的なバックグラウンドが融合することになリました。
それから47年経ち、今回このような形で(新演出版鑑賞のために)来日出来、感慨深いものがあります。人生はちょっとしたきっかけで思いがけない方向に行くものだということの一例だと思います」
――大学で日本の歴史に触れたとき、どんな点が魅力的でしたか?
「すべてが新鮮でした。大概の学生は大学に入るとパーティーやアメリカン・フットボールに熱中しますが、私も同様でありつつ、それまで全く知識のなかった東アジアが新鮮だったのです。西洋が開国を迫った時の中国や日本を見てみると、特に日本は西洋に視察に赴き、最良の教育や軍隊システムのモデルを模索し、外圧という危機に際して、とてもうまく対処したと思います。1853年から1868年までの歴史は非常に興味深いものでした」
――舞台化にあたり、歴史家など日本人の専門家とコラボレートすることは考えましたか?
「当時は考えませんでした。ハルは歌舞伎のコンサルタント、かつ出演者としてハルキ・フジモトさんを招き入れましたが、彼は演出・振付面におけるコンサルタントであって、作家にとってのコンサルタントではありませんでした。
1970年代当時、NYでもアメリカのどこでも、日本はあまり知られていませんでした。私が初めて日本的なものに触れたのは、高校時代に観た黒澤映画です。当時はおそらく外交関係など、限られた職業の人しか日本を知ることはなかったでしょう。例え探したとしても、当時のミュージカル界で日本人のコラボレーターに行き当たることは無かったと思います。僕ら3人は深く考えることなく、日本人の立場から外圧の危機のドラマを作ろうとしました。ソンドハイムが『リトルナイト・ミュージック』を書いた時のように、好きなようにキャラクターを描こうと。
もしも今、本作を舞台化するのであれば、演出家であれ、共同作家であれ、音楽監督であれ、主要な役割を果たす存在として日本人がクリエイター陣に加わるべきだとは思います。でも当時のブロードウェイでは、誰もが深く考えずに作品を作っていました。ロジャース&ハマースタインは『オクラホマ!』を書くにあたり、カウボーイに取材したりはしていません。もし僕らが日本人の専門家と仕事していたら、より細心の注意を払って日本の歴史を扱うことができただろうと思います。ジョン万次郎が本作にあるように、刀を振り回すようになっていったわけではなく、実際には教授になったことも知っていますので、日本人のお客様は(本作に対して)寛大に観て下さっていると思います」
――ということは、特定の小説などがベースになっているわけではなく、本作はあなたのオリジナル・ストーリーなのですね。
「そうです。この題材に決めてから、大学時代に読んだ文献を読みなおし、加えてペリー来航以降の出来事や諸外国の動きなども詳細に調べた上で書きました」
――当時日本人の友人はいましたか?
「高校時代はいませんでしたが、大学ではカリフォルニア出身の日系アメリカ人の友人がいました」
――日本人的な感性や行動には触れたことがあったのですね。
「学生時代の4年間は、出来るだけ吸収しようとつとめました。歴史だけでなく文学や音楽にも親しみ、日本的な繊細さや、アメリカよりずっと豊かで歴史のある文化に触れていました」
――この質問をしたのは、本作に非常に“日本人的”に感じられるシーンがあるためです。二人の主人公は袂を分かちますが、その過程にはほとんど“議論”がありません。西洋の戯曲であれば突っ込んだ台詞の応酬があるかと思われますが、本作ではそれがない…という点において、日本人が議論を避けがちであることをよくご存じなのかなと思われました。
「興味深いですね。執筆時にはそのことを全く考えていませんでしたが、確かに主人公たちがアメリカ人であれば、叫びながら議論するシーンの多い芝居となるでしょう。ハロルド・プリンスはそういった(日本人の)繊細さの表現に非常に気を遣っていて、単に和服を着たアメリカ人たちが芝居をしているように見えないようつとめていました」
――幕開けのナンバー(”The Advantages of Floating in the Middle of the Sea”)の頭に邦楽的なものが入りますが、これは既存の曲でしょうか。(注・歌詞は“過去へと”。)
「ご想像の通り、ソンドハイムが書いた曲ではありません。ハロルド・プリンスは初演の際に日本人の邦楽家を3人、舞台の脇に配していて、そのうちの一人の女性に、芝居が始まる前にこういうような感じ(の歌詞)で歌ってみていただけますかと頼んだのです。彼女は日本出身、NY在住の三味線奏者で、本作は彼女にとって初のミュージカルだったと思います」
(後日、今回このパートを歌っている綿引さやかさんにお尋ねしたところ、
「譜面には“三味線と歌の掛け合い”と記載があり、そこに書かれていたメロディをもとに、長唄や尺八の曲を参考にし、節回しや間合いを考え、歌わせていただいています。ジャンルとしては、明言はされていませんが、自分自身は長唄をイメージして歌わせていただいています。
(演出の)マシュー(・ホワイト)さんがいらっしゃった稽古の初日に、歌合わせでこの歌を歌わせていただき、まさかのアカペラで歌うことになり、一気に緊張感が高まったのを覚えています(笑)。でもアカペラだからこそ、本作の中でたまてが担っている役割や思いを、間合いや余韻の中に込めることが出来ているようにも感じています。
演出家からは節回し等について指定はありませんでしたが、“たまては魂としてこの歌を歌いながら、お客様や舞台上にいるオーディエンスを過去へといざなって欲しい”とディレクションを受けました。
また、最後の万次郎と香山の殺陣のスローモーションシーンでも、もともと台本の中に歌は無かったのですが、マシューさんが“この歌を入れようと思う”とおっしゃって下さり、歌うことになりました。
時を繋ぐ“橋”のような存在として、あの歌をお届けできたらと思っています」
とのお答えをいただきました。)
――本作は2017年に改訂されましたが、どんないきさつだったのですか?
「ジョン・ドイルの新演出にあたっての改訂だったのですが、ジョンは“どんな作品も、よりタイトに削いでゆくことでより良くなる”という主義の人で、私自身、初演以来そう感じていました。
本作において、ソンドハイムは特に冒頭のナンバー(“The Advantages~”)で素晴らしい仕事をしていて、独自のルールのもとで存在し守られてきた(日本の)文化の純粋さというものを、うまく表現していたと思います。その純粋さがあってこそ、西洋によって侵され、踏みにじられ、変化していく様が際立ちます。ですが作品を見返してみると、1幕中盤(注・今回の日本上演は全1幕でしたが、本作はもともと2幕ものとして初演)にある“Chrysanthemum Tea”というナンバーは皮肉のきいた、アメリカ的な感覚で書かれている。もしこの曲を取り出し(カットし)たら、冒頭のナンバーの純粋さを本作の根底に置き続けることが出来、2幕の“A Bowler Hat”でも背景として効果をあげられるのでは、と思いました。結果的に良い選択だったと思います」
――冒頭の“The Advantages~”は日本という国の有り様を見事に集約していますが、いっぽうでは、異なる階層の文化が同列に挙げられており、日本では当惑する観客もいらっしゃるかもしれません。
「日本のお客様が感じるであろう“居心地の悪さ”は理解できます。ただ、本作は1976年に、NYの、主に白人ミドルクラスのミュージカル観客のために書かれた作品で、彼らは日本について全く知らず、何が武士、何が農民の文化かを区別することもできませんでした。これはアメリカの教育の問題でもあるのですが、本作は特定の時代に、特定の人々に向けて作られた作品だったのです」
――物語の中盤での香山の妻、たまての行動については、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』が影響しているでしょうか?
「若干そうですね。西洋の観客にとってプッチーニのオペラは親しみのある存在ですから。ただ、主要な効果としては、香山が良い知らせをもって帰宅した時にこうした展開になっていることで、物語がぐんと進行するのです。『オクラホマ!』にせよ『ハミルトン』にせよ、全てのミュージカルにおいて、スピーディーなストーリー展開は非常に大切なのです」
――侍の妻であれば、夫の身に何が起こったのか、見届けなければと責任感を抱くような気もします…。
「もちろんそうです。もしアメリカ人の話であっても、同じような感想を持たれることでしょう。ただ、本作ではここで悲劇が必要だったのです。大概のプロダクションでは、このシーンはあまり心地の良いものではないのですが、今回の様式化された演出は大いにそれを和らげていると思います。ご指摘の心地悪さを、あの赤い布を使った演出がかなり抑制している気がします」
――その少し後(初演版では一幕終わり)の“Someone on the tree”は、どこか象徴的なナンバーですね。
「実際のところ、来航したペリーは(日本に開国を迫る大統領からの)国書を手渡し、1年後に返答を聞きに再訪した…というだけで、そこにはドラマティックなものは何もありませんでした。スティーヴンとハルは、ここをどうしようかと話し合い、スティーヴンが“歴史とは、誰がどこで何を目撃したかに依存する”という天才的な観点から、このナンバーを書き上げました。
ここでは木に登った少年が、実際には何も見えていないにも関わらず、見えたように装い、作り話をします。歴史とその目撃者たちの複雑な関係を表現しているのです。後年、スティーヴンは“自分が作った作品の中でどれが一番好きか”と聞かれると“どれも異なる理由で愛着があるので選べない”と言っていましたが、“どの曲が一番好きか”と聞かれれば、迷わずこの曲を選んでいました」
――今回のプロダクションは“米国人から見た日本”がさらに“(演出家マシュー・ホワイトという)英国人からの視点”を経て上演されていますが、いかがでしたか?
「本作の出発点は、3人のNY在住の西洋人が日本人の立場に立って開国を描く、というものでした。日本人たちが来訪した西洋人たちにどのように反応し、それによってどのように複数の文化が融合し、互いにインパクトを与えたり、借用し合ったりしてきたか…。
20年前、僕とスティーヴンはそれぞれ別の仕事で来日していて、新国立劇場で宮本亜門さん演出の本作を観、素晴らしいプロダクションだと思いましたが、今回また日本を描いた西洋発の作品が、日本に戻って上演されることがとても嬉しく思われます。“英国的な演出”と感じた箇所は特にありませんでしたが、作者としてはこれまで問題だと感じていた部分が今回はほとんど解消されており、日本のお客様に観て頂くバージョンでこうなってよかったと喜んでいます。
東京の劇場(日生劇場)ロビーでは次回作の『ミュージック・マン』のポスターを見かけ、次は皆さん、アメリカ人が作ったアメリカの物語を御覧になるわけだけど、今回はそれよりも遥かに複雑な(作品とスタッフ・キャスト、観客との)関係性が生じていると感じました。それが逆に、“西洋人たちが私たちの国のことをミュージカルとして表現している、それを私たちの俳優たちが演じているのだわ”と、お客様の興味をそそるような経験になることを祈ります」
――キャストについてはいかがでしょうか?
「終演後に楽屋を訪ね、キャストの皆さんに申し上げました。“これまで多数のプロダクションを観てきましたが、これ以上の演技力、歌唱力のものはありませんでした”と。今回のキャストは秀逸だと思います」
――初演から半世紀近くが経っているわけですが、今の日本をどう御覧になりますか?
「いくつかの作品に関連して4,5回日本を訪れていますが、今回の訪問は特に素晴らしく感じられます。日本は(様々な要素が)非常によく機能し合っているし、NYを愛する私ですが、NYが既に失ってしまった社会の形というものが、ここにはあります。よく考えると、50年前に私が日本に惹かれたのもこうした部分でした。芸術にしても、挨拶(礼儀)を重んじるカルチャーにしても、サービスの在り方にしても、NYとは全く違う。私は皆さんの国が本当に好きです」
――有難うございます。現在はどんな作品に取り組まれていますか?
「2本あります。一本は1979年の映画『ノーマ・レイ』をベースとした、ノース・キャロライナで労働組合を結成するヒロインを描く、政治的な物語。1年以内に開幕するのではと思います。ジョン・キャッシュの娘で、シンガーソングライターであるロザンヌ・キャッシュが音楽を担当します。
もう一本、夏から稽古に入る作品もあります。この歳にしてはかなり忙しくしていますが(笑)、好きなことを50年も続けていられる自分はラッキーなのだろうと思います。時には、人生で他に何か出来たこともあるかなと考えますが…やっぱり、他にはないんですよね(笑)」
――コロナ禍によって、NYの演劇界でも甚大な被害があったとお聞きします。今後、新作の傾向に影響などは出てくるでしょうか。
「ソンドハイムと僕の『アサシンズ』もリハーサルのさなかに中止を余儀なくされましたが、21年に厳しい規制が解かれ、上演がかないました。今後の新作の題材に関しては、2,3年で影響が見えてくると思います。
ショービズが“ノーマル”に戻るのか、永遠に変わってしまったままかは、誰にも分りません。シアターはNYのみならず、アメリカにとっても国の主要な産業でしたが、今後は冒険が抑えられるかもしれません。プロデューサーたちが理想的な道を模索してゆくことでしょう」
――日本では昨今“ミュージカル熱”が高まってきており、クリエイターに興味を抱く方も増えていると思います。そうした若い方々にアドバイスをいただけますか?
「アメリカでは、ミュージカルは“容赦のない”仕事と言われてきました。例えば絵画は、描き終われば作品は完成します。小説もそうです。でもミュージカル作家は誰かが俳優たちを雇い、実際に上演してくれない限り、作品は完成したとは言えません。そこには経済が関わり、誰かが出資する必要があります。日本では異なるシステムで上演されているかもしれませんが。
しかし、ミュージカルは舞台芸術の中でも特に素晴らしいジャンルだと思います。台詞に加えて音楽、歌詞、ダンス、動き…と、表現方法がたくさんあります。特に音楽の存在によって、観客にエモーショナルに、迅速にコネクトすることが可能です。20年前に劇団四季が日本初演を行った僕とスーザン・ストローマンとの共作『コンタクト』は、ほとんどがダンスで表現されますが、非常に力強く物語が伝わる作品だと思います。ミュージカルというジャンルでは、物語を引きだすのに最良の方法を組み合わせることができるのです。
ですから、もしも心の底からミュージカルに惹かれるのであれば、この道に進みなさい。だが創造のプロセスは最も満足のいく、重要なものでなければなりません。最後の最後に結実するかどうかわからないからこそ、です。自分の書くものを信じなさい。日本で発表するのにどんな場があるか、詳しくはわかりませんが、小劇場で発表することもできるでしょう。私自身は、クリエイティブな人生を選んだことを後悔したことはありません。胸躍る日々ですから」
(取材・文・撮影=松島まり乃)
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