劇場に入るとロビーには色とりどりのガス灯が並び、朗らかなムード。開幕前にはロビーや客席通路をパリの人々が衣裳で歩き回り、スリが追いかけられるなど様々な人間模様が繰り広げられます。気が付けば“作品世界の中にいる”という形で、観客は着席。序曲を耳にします。
明るい曲調の序曲には一部、不穏なくだりがありますが、その箇所に来るとキャストの動きは不格好に止まり、照明も一段階ダウン。“光と闇が表裏一体となった物語”であることを示唆するかのような一瞬を経て、舞台にはまばゆい光が戻ります。
春風のように雑踏の中に現れ、希望に目を輝かせながら歌う楽譜売りの娘クリスティーヌ。彼女はシャンドン伯爵に見いだされ、オペラ座で歌のレッスンを受けられるよう、支配人キャリエールへのメモを渡されます。
夢見心地で劇場を訪ねた彼女ですが、折しもキャリエールは解任。新たにその職に就いたショレの妻で俗物の歌姫カルロッタの気まぐれから、クリスティーヌは衣裳係にされてしまいますが、憧れの劇場で職を得た嬉しさに胸は高鳴り、誰もいない衣裳室で歌いだします。
その歌声を耳にしたのが、“ファントム”と呼ばれる劇場のもう一人の主、エリック。地下世界で孤独に生きてきた彼はクリスティーヌの歌声に亡き母の記憶を重ね、彼女に歌のレッスンを施すことに。クリスティーヌの歌唱力は瞬く間に磨かれ、パリの人々の知るところとなります。
クリスティーヌは『妖精の女王』のヒロインとしてオペラ座デビューを果たすことになり、シャンドン伯爵との間には恋が芽生えますが、デビュー当日、カルロッタから毒酒を飲まされ喉をつぶしてしまう。怒ったエリックによって地下世界に連れてゆかれた彼女は、そこに現れたキャリエールからエリックの出生の秘密を聞き、自分なら彼を救うことが出来るのでは、と考えます。
しかしそのころ地上では、カルロッタの楽屋をエリックが訪問。その腕に抱かれた花束には、穏やかならぬ意味が込められており…。
2004年を皮切りとして、上演を重ねてきた日本版『ファントム』。ロイド=ウェバー版などいくつもの“オペラ座の怪人”ミュージカルが存在する中で、アーサー・コピット脚本、モーリー・イェストン作詞・作曲の当バージョンは、主人公エリックの内面に肉薄した内容が特徴的です。
今回、主演と同時に演出を務めるのは、前回公演でもエリックを演じた城田優さん。作品への深い理解に支えられた彼の演出は、(冒頭で述べた)上演前のパフォーマンスにはじまり、ファントム登場時のスモークや宙吊り、火花、雪等を駆使し、場面によっては客席通路やステージ上部にしつらえられたオーケストラ・スペースにもキャラクターたちが飛び出してゆくなど、ケレン味たっぷり。観る者を飽きさせません。その一方ではキャラクター一人一人の内面を鮮やかに描き出し、決して“スペクタクル”でも“怪奇物語”でもない“人間ドラマ”としての骨格を確かなものにしています。
特に今回、興味深く映るのが、2幕、キャリエールの回想シーン。ここではエリックの母ベラドーヴァの幸福からの転落、そして幼きエリックが己の醜さを知り、仮面をつけるようになるまでが語られますが、単にエピソードとして語るのではなく、コンテンポラリー・ダンス(振付・新海絵理子さん)を交えてかなりの熱量をもって描かれ、本作全体の起点としての存在感を示します。
それによって、この後、クリスティーヌが散策中にエリックに仮面を外すよう乞うくだりや、終盤のキャリエールとエリックの語らいの悲劇味も強調。この二つのシーンでは、場内が水をうったような静けさに包まれ、その後も全てが闇に包まれる最後の一秒に至るまで、多くの人が息をつめて見守っていたことが、カーテンコールで舞台が明るくなり、ほっと溜息をつく気配の多さからうかがえます。
細かな部分では、例えばクリスティーヌとシャンドン伯爵が恋に落ち、ロマンティックな空気の中で口づけ…となりかけるも、シャンドンはクリスティーヌの額にキスをするにとどまるのもポイント。フランス人にしては随分奥手な表現にも見えますが、その後、クリスティーヌのデビュー直前の楽屋をシャンドンが訪れたところで、改めて気持ちが高まり、二人はキス。そしてそこには偶然、クリスティーヌの歌手デビューを祝おうと訪れたエリックが。二人の初々しいファースト・キスを、マジックミラー越しにではあれ、目の当たりにしてしまった彼の衝撃はいかばかりか。このインパクトを表現するためにも、ファースト・キスはこの場でということなのでしょう。キャラクターの心情がさらに浮き彫りとなるよう、すみずみまで行き届いた視線の感じられる演出です。
舞台の充実はキャストの好演によるところも大きく、まずはエリック役(ダブルキャスト)加藤和樹さんの、繊細さ際立つ人物像が出色。冒頭、キャリエールに向けてかける声にはその直前の蛮行とは不釣り合いなほどの動揺が見て取れ、本作では観客にとってエリックが“恐怖の対象”ではなく、心寄せるべき存在であることが印象付けられます。
“醜さ”とともに生まれたことで、この世にどう存在していいかわからず、孤独の中で生きてきたエリック。それがクリスティーヌという運命の人に出会って音楽を教え、彼女の上達に震えるほどの喜びを覚える。つかの間の散策ではクリスティーヌに抱きしめられ、初めて“心を許す”ことを知る。おずおずと、しかし懸命に未知の領域に踏み込んでゆく姿は、“殺人者”という前提があるだけにいっそう悲しく、心寄せずにはいられないキャラクターとして映ります。
もう一人のエリック役、城田優さんは、それまで人間と交流することがほとんどなかったがゆえのエリックの不器用さ・ぎこちなさを浮き彫りにしつつ、時にこぼれるシニカルなユーモアに味わいが。もしも異なる環境で育ったならば、この青年は違う人生を歩めたかもしれない、と口惜しさを覚えさせます。また激情に駆られた際に放たれるエネルギーが凄まじく、2幕、クリスティーヌとの散策で微かな希望が絶望に転じた後、“(クリスティーヌを)渡さない 誰にも”と歌う場面では、場内全体にエリックの狂おしい思いが渦巻き、圧倒的です。
クリスティーヌ役(ダブルキャスト)の愛希れいかさんは、カントリーサイド育ちの娘の素朴さがきらきらと輝く序盤から、若さ・無知ゆえの失敗を経て人生の機微を知る終盤まで、短い時間の中でクリスティーヌの変化・成長を鮮やかに見せつつ、後半には二役であるエリックの母役を、鬼気迫る迫真性をもって体現。この場面での確かなダンス表現、そしてクリスティーヌがエリックからレッスンを受ける間に如実に変わってゆく歌声も強い印象を残します。
もう一人のクリスティーヌ、木下晴香さんは“まだ人生を知らない”娘の天真爛漫さを、ナチュラルに体現。オペラ座で衣裳係として職を得て歌う“ホーム”では、甘やかな歌声が彼女の夢見心地を存分に表現し、その後のエリックの歌詞“ずっと待っていた 天使のささやき”に説得力をプラス。幕切れには、聴く者の心をそっと包み込むような声で余韻を残します。
ヒロインを地下世界に連れてゆくエリックとは対照的に、彼女のキャリアをひらき、光輝く世界に導くシャンドン伯爵役を演じるのは廣瀬友祐さん、木村達成さん。廣瀬さんは大人の男の色気を上品に纏い、木村さんは遊び好きの若者が“初恋”に目覚める過程を見せ、それぞれに魅力的です。
また今回のバージョンでは、岡田浩暉さん演じるキャリエールの存在も大きな柱の一つ。エリックの悲劇はいわば、キャリエールの人生の選択によるものですが、取り返しのつかない過ちの後、苦しみつつ、彼なりに愛する者を守り抜こうとしたことが、岡田さんの誠実なキャリエール像から伝わってきます。彼の愛し方が正解ではなかったとしたら、どんな愛し方が可能だったのか。最後に見せる孤独な背中が、本作が与える感慨をより深いものとしています。
キャストの好演を得て、幕開きから終幕まで目の離せない人間ドラマとなった2019年版『ファントム』。この年の忘れがたい舞台の一つとして、多くの人々の心に残ることでしょう。
(取材・文・撮影=松島まり乃)
*無断転載を禁じます
*公演情報『ファントム』2019年11月9日~12月1日=TBS赤坂ACTシアター、12月7~16日=梅田芸術劇場メインホール
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*公演情報『ファントム』2019年11月9日~12月1日=TBS赤坂ACTシアター、12月7~16日=梅田芸術劇場メインホール