船着き場で乗船を拒まれた、一人の少年。あてどもなく歩く彼は、凍死した母親に抱かれた盲目の赤ん坊(デア)を拾い、見かけた小屋に助けを求める。住人である興行師ウルシュスは一度は断るも、考え直して彼を招き入れ、その顔を覆っていたショールを取って驚く。グウィンプレンという名のこの少年は幼少の頃、見世物にするため口を裂かれ、その顔には醜悪な笑みが貼り付けられていた。ウルシュスのもとでグウィンプレンとデアは成長し、いつしか愛し合うようになるが…。
『レ・ミゼラブル』『ノートルダム・ド・パリ』の作者ヴィクトル・ユゴーの“もう一つの代表作”である本作は、ロバート・ヨハンソン(脚本・演出)、フランク・ワイルドホーン(作曲)らによって舞台化され、昨年、韓国で世界初演。それから1年を待たずして実現した日本版は、スケール感たっぷりのオリジナル舞台美術(オ・ピリョン)を概ね踏襲、ヴィジュアル的には韓国版と一見“同一の劇世界”でありながら、演出を担当した上田一豪さんのもと、一味異なる余韻を残すものとなっています。
“弱き者たち”の躍動
ネタバレ回避のため詳述は出来ないのですが、後半のクライマックスを頂点として“弱き者が救われない社会の不条理”を痛烈に、悲しみや怒りの渦を巻き起こしながら訴えているように見えた韓国版に対し、今回の日本版では1幕の段階からその“弱き者”の側、社会の底辺で生きるウルシュスの一座が弾けんばかりに躍動。
欺瞞に満ちた貴族社会の人々よりも、よほど人生を謳歌して見える彼らの描写によって、“何が幸せか”、改めて思いを巡らせる観客もいらっしゃることでしょう。人道主義者たるユゴーが描く作品の骨子は同一ですが、社会に向けられたメッセージというより個々の価値観を問うているのが、今回の日本版と言えます。
グウィンプレン役の浦井健治さんは、芸人として自らの生い立ちを演じてみせる登場シーンから溌溂とした中に機知をうかがわせ、屈託がないと見えて、実際は顔の傷に起因するダークな感情を種火のように抱え続ける青年を、表情豊かに体現。とりわけ後半、感情を爆発させるくだりで正論が捻じ曲げられる無念を存分に表現し、その後の行動に説得力を持たせています。
またウルシュス役の山口祐一郎さんは、はじめは世捨て人のように登場するも、グウィンプレンたちを養育する中で父性愛に目覚める人物を、人間味豊かに表現。グウィンプレンの危なっかしい行動に対しては本気で怒り、病弱なデアに対してはガラス細工を扱うように優しく接する。一座の若者たち全員に対して愛情はあっても、傷や病いを抱えた彼らには特別な思いがあるのだろうと想像させるウルシュス像です。
いっぽうこの日デアを演じた衛藤美彩さんは、純粋無垢を絵に描いたような白いドレスに金髪という扮装がよく似合い、誰もが手を差し伸べずにはいられない儚い風情。
退屈しのぎにウルシュス一座を訪れ、その醜さに逆に惹かれてグウィンプレンを誘惑するジョシアナ公爵役・朝夏まなとさんは、凛とした中に時折、ジョシアナ自身も制御できない虚無感を見せ、ジョシアナの婚約者であるデヴィット・ディリー・ムーア卿役の宮原浩暢さんは救いようのない“色悪”に品を漂わせ、それぞれに好演。
また王宮の使用人で貴族たちの実像に辟易しているフェドロ役、石川禅さんは終始冷ややかな口跡をキープしつつ、次第に“ただの使用人ではない”存在感を発揮してゆきます。
様々な出来事の果て、或る美しい光景を夢見るかのように、ウルシュスがたたずむ。その胸に去来するものは…。思わず歌舞伎の『熊谷陣屋』の最後の台詞(“…夢だ、夢だ…”)を重ね合わさずにはいられない、それは情感溢れる幕切れです。
(取材・文・写真=松島まり乃)
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