Musical Theater Japan

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柴田麻衣子の連載エッセイ『夢と夢のあいだ』Vol.10“となりの神田川”

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『となりの神田川』画・柴田麻衣子
東京に上京して15年間、何度か引っ越したがずっと神田川の近くに住んでいる。
冬の寒さが残る中、川沿いの桜が咲き始め、だんだん暖かくなって、五分咲き、八分咲き、満開になり、葉桜となって、緑が増えていく。
私にとって春は特別な季節だ。
 
15年前の3月、私は東京にやってきた。
4月から大学に通うため、学校近くの神田川沿いのマンションに引っ越した。
 
引っ越しと言っても、家具や家電を東京で揃えようと思っていた私の荷物は、大きい鞄2つと折りたたみ式ローテーブルと寝袋くらい。
それを車のトランクに積んで、父の運転で東名を走り東京を目指した。
 
助手席のシートを倒して眠ったり起きたり、長い道のりを虚ろ虚ろ過ごしていると、数時間経って首都高に入った。
隙間なく並ぶビル擦れ擦れを走る首都高に、東京を感じる。
渋滞をゆっくりと進む間、ラジオでは吉村作治がエジプト学研究について喋っていた。
新生活を前に緊張していたせいか、不思議とそんな些細なことまで覚えている。
 
東京が分からない父と私でも、家電と言えばアキバでしょ!という知識はあった。
マンションに着き荷物を置いてすぐ、カーナビを頼りに秋葉原に向かい、新入生応援セットの家電を揃え、次の日父は帰って行った。
 
初めての一人暮らし。
新歓でごった返すキャンパス、授業登録、新しい出会い、レクリエーション、慣れないことばかりで気疲れしてしまう。
学校とマンションを往復するだけの一週間が過ぎた。
 
次の週末、母が様子を見に東京にやってきた。
一緒に近所を散歩してみようと、初めてマンションの裏の神田川を歩くことになった。
 
川に架かる橋の上で、私たちは思わず立ち止まった。
両岸から川面に落ちんばかりの、立派な枝振りの桜が満開だった。
その景色は凄い迫力で、緊張と不安でふわふわしていた私の心を一杯にしてくれた。
 
新生活を始めた場所が、とても特別な場所のような気がして、嬉しくてたまらなかった。
母も、「こんなに綺麗な桜の近くだなんて、いい所だね。」と安心して帰って行った。
 
しかし、その特別な時間は長くは続かない。
暑くなってくると神田川からプ〜ンと、嫌な臭いが漂う。
地元でそんな臭いを感じたことがなかったので、初めはそれが川の臭いだと気づかなかった。
これが東京の川の臭いなのか…と驚いた。
桜の葉は青々と綺麗だけど、どうしても足早に橋を渡ってしまう。
秋になって葉が散ると、桜の木を意識することもなく季節が過ぎていく。
 
春になり神田川の桜が咲き始めてはっとする。
そうだ、私が住んでいる此処は特別な場所だった!!
そんな自分を現金だと思いつつ、毎年この特別な時期を楽しんでいた。
 
4年目の春、私は桜を見ることができなくなってしまった。
人生の進路に悩み、苦しんでいた頃だ。
それまで楽しみにしていた桜を見ることがこわくなった。
桜を見てわくわくする、そんな豊かな心が自分に無いことを責められているような気がして、目を伏せて歩くようになっていた。
 
その年の夏、それまでの生活から逃げるようにして引っ越した。
それから数年間、神田川の近くには住んでいたけれど、桜を見に行くことは少なくなっていた。
 
4年前、また神田川沿いに住むことになった。
それから毎年、この時期にお花見をしている。
TipTapや夫の演出作品に出演した役者さん、バンドメンバー、スタッフ、その恋人やご家族に声をかけて。
目黒川などの有名なお花見スポットとは違って、近所の人々や近くの会社の人々がゆっくり楽しむ素朴な雰囲気が好きだ。
 
自然はいつも変わらずそこにある。
それを見る私たちは変わっていく。
同じ桜に、素晴らしく希望を感じたり、どうしようもなく苦しく感じたりするのだ。
 
昨年から、娘が川向こうの幼稚園に通うことになり、毎日のように神田川の橋を渡る生活が始まった。
入園式の日、新しくてぶかぶかの幼稚園のベレー帽を被った娘と、橋の上で桜をバックに記念写真を撮った。
 
毎日の送り迎えで季節を感じる。
娘のお気に入りは桜が散る頃、川面が花びらで薄桃色の絨毯のようになる時だ。
相変わらず夏の神田川は臭う!
夏に橋を渡る時はできるだけ息を止めて歩く。
ふと隣の娘を見ると、鼻を手でつまみながら歩いていたりする。
娘も慣れたものだ。
 
今年は、残念ながら恒例のお花見はできそうにない。
でも、この春定年退職を迎える母と、神田川の桜を見ることができた。
世の中がこんな時だけど、桜は何も変わることなく、堂々と、優しく、道行く人を楽しませていた。
 
娘が卒園式を迎える日、使い慣れたベレー帽を被った娘と、橋の上で記念写真を撮りたい。
その時にはまた沢山の人が、ゆっくりお花見を楽しめていたらいいな。
 
(文・画=柴田麻衣子)
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柴田麻衣子 愛知県出身。早稲田大学在学中に劇団TipTapの旗揚げ公演「Flag of Pirates」に参加。それ以降、俳優として参加。劇団解散後、プロデュースユニットとしての活動では美術・制作を担当。「Count Down My Life」よりプロデューサーとして作品のプロデュースを担いながら、作品のプロダクションデザインを手がけている。舞台美術家としても活動しており、主な参加作品に「Working」、「幸せの王子」(映画演劇文化協会)、「Sign」(ミュージカル座)などがある。(画・上田一豪)