1981年に榊原郁恵さんがピーター・パンを演じて以来、日本の夏休みにワクワクをもたらしてきたミュージカル『ピーター・パン』が、今年も上演。昨年からタイトルロールを演じる山﨑玲奈さんとともに、フック船長/ダーリング氏役で続投しているのが小野田龍之介さんです。
(※榊原郁恵さんの「榊」はキヘンに神)
まだ30代前半ながら、様々な舞台でドラマティックな二枚目から怖~い先生、おっちょこちょいな人物まで、幅広い役柄を的確に演じ分けてきた小野田さん。昨年そのプロフィールに加わったフック船長/ダーリング氏役については、これまで公演ごとに様々な表現がなされてきましたが、今回の『ピーター・パン』では、どんなキャラクターとして造型しているでしょうか。
ファミリーで楽しめつつ、大人もはっとさせる深さを持つ本作の魅力を、存分に語っていただきました。
“ワニの不在”が意味することとは?
――小野田さんはもともと、“ピーター・パン”に対して思い入れはありましたか?
「僕は根っからのディズニー好きなので、“ピーター・パン”と言うとミュージカル版や小説より、実はディズニー映画の『ピーター・パン』をすぐに連想します。子供の頃は、いつも寝る前にビデオを再生するくらい、大好きでした。これを流しながら寝ればいい夢を見られそう、夢の中で冒険できそうという気がしていたんです。
大人になった今は、バリが『ピーター・パン』を書く経緯を描いたミュージカル『ファインディング・ネバーランド』がとても好きです。俳優たちが“僕らはプレイすることが好きなんだ、それを忘れてはいけない”と気づいたり、“子供の心を忘れなければイマジネーションの力は一生持ち続けられる”という内容が、職業柄、自分に重なる部分が多い作品です。ピーター・パン物語の持っている力は偉大ですよね。その年、その年で感じ方は違うけれど、常に何かしら考えさせてくれる題材だと思います」
――昨年の公演にはどんな思い出がありますか?
「とにかく大リニューアルで演出ががらっと変わり、ピーター・パン役も変わりましたので、新作を作っている感覚が強かったです。演出の長谷川(寧)さんも、ただただ楽しいピーター・パンではなく、シリアスなドラマ寄りに作ろうとされていました。そして、そこに歴代、ホリプロが手掛けてきた『ピーター・パン』の色というものがありますので、それを足してゆくという作業がありましたね。演出家が抱いているピーター・パン像と、ホリプロ版ならではのピーター・パン像をブレンドしていくにあたって、どの部分を採っていこうかと丁寧に作っていました」
――長谷川寧さんの演出・振付には、どんな特徴を感じましたか?
「長谷川さんは身体表現(の振付)をたくさんなさって来た方なので、お芝居で使う身体のリズムとか、ただ芝居をするシーンだとしても身体の居所だとか、台詞と台詞の間にちょっと動くにしても手の開き具合や出し方など、非常にこだわる方でした。フック船長に関しては放し飼いでしたが(笑)」
――なぜ放し飼い⁈(笑)
「僕が(稽古で)いろいろやっていたからじゃないかな。僕も身体を使うところから芸事を始めているので、こういう路線でやっていこうという長谷川さんの意図をキャッチできていたのかもしれません。
フック船長は他のキャラクターと違って、みんなが動いているところでどっしりしていたり、みんなが止まると逆に彼が動くという傾向があるので、そういったメリハリをつけられるよう工夫しました。もっとも“放し飼い”とは言え、長谷川さんと“こういうのはどうだろう”と話しながら、作っていったという感じです」
――ということは、日々アドリブを入れるというようなことは無かったのですね。
「全く無いですね。(本番では)稽古場でやってきたことの中からチョイスするという感じでした。そうそう、公演を毎日見て、翌朝、“昨日の公演のチェック”で(各キャストのところに)廻って来てくれるのも、長谷川さん演出の特徴です。“あそこはいついつにやった形でやってみて”とか、クオリティは変わらないけれど細かい部分の調整が毎日ありました。
このやり方、僕はすごく好きです。だって、長く続いていて“パッケージになっている”作品だと、俳優はそこに乗っかっているだけで生きた気持ちになってしまうんです。でもそういうふうに演じたらダメになるのは目に見えていて、つまらない演技になってしまいます。
人間、生きていく上で“今日はこれをやる”という目標があるものですが、それと同じで、演技にもその日のタスクが必要です。なれ合いのルーティーンになってしまったら演技はとたんにつまらないものになりますし、とりわけ『ピーター・パン』は何かを求め続けるキャラクターばかりなので、長谷川さんが毎日チェックしてくれるのはすごくいいことだと感じました」
――演じる二役について詳しくうかがいますが、まずピーター・パンが訪れるダーリング家の家長、ダーリング氏は公演によって若干、カラーが異なります。小野田さんのダーリング氏は、あまりコミカル色は濃くないですね。
「そうですね。本番ではコミカルにやった箇所もありましたが、稽古はストレート・プレイ寄りというか、あまり大きな表現はせず、小さな劇場で芝居をしている感覚で、お客様がダーリング家の日常を窓から覗いているように感じられる芝居を作ろうというところから始まりました。
やって行く中で、“これだとダーリング氏がきつく見えるかも”という意見が出て、“では抜けた感じを出してみよう”となったりしましたが、“表現しすぎない”というベースは変えていません。それをやってしまうとただふざけているみたいになって、ダーリング氏とフック船長の色が変わらなくなってしまいます。ダーリング氏のいる“現実”とフック船長のいるネバーランドという“虚構”の差を出すよう、心掛けていました」
――本作で一人の俳優がダーリング氏とフック船長を兼ねることには、大きな意味があると言われています。小野田さんはどんなことを意識されていますか?
「この二役の関連性については見方がいろいろありますので、どう観ていただいても構わないのですが、長谷川さんの演出の大きなポイントとして、“実体としてのワニが登場しないこと”が挙げられます。おそらくこれまでのバージョンではどれも実際にワニが出てきていると思いますし、ディズニー映画でももちろん登場しますが、今回の演出では現れないんですよ。
フック船長には確かに、ワニに腕を食われたという過去があります。でも、“時計を食べたワニがフック船長を狙っている”という状況は話だけで、目には見えません。というのは、時計を呑み込んだワニというのは実は“時間”の象徴であり、大人であることの象徴でもあるんですね。そして、ダーリング氏も“遊んでいる暇はない”“これからディナーだ”と、“時間が無い”ことを始終気にしています。
大人というのは時間を気にするものですが、それに比して子供は時間のことなんて気にしません。寿命を気にして、死に向かっている大人の象徴がダーリング氏やフック船長だとしたら、人生に希望しかなく、時間を気にしない子供の象徴がピーター。この二極化が鮮明なのが、今回の公演の大きな特徴になっています」
――時間を意識するフック船長としては、意識してないピーターに対して、憧れのようなものがあるでしょうか?
「あるでしょうね。僕も実年齢は30代前半ということもあって、前回は大人になり始めてしまった大人として演じました。本当は時間を気にしないで自由に生きたい、でも現実はそうじゃないんだという歯がゆさをピーターにぶちまけている部分もあると思います。
ピーターはずっと子供のままでいられると思っていて、迷子たちを抱え込んでもいるけれど、“お前みたいな生き方を誰しもが永遠にできるわけではない”と思っていて、その現実から目を背けているピーターへのいら立ちもあるんじゃないか。ファンタジーとして描かれた作品ですが、“生きる”ということへの価値観の違いを描いた作品でもあるように思います」
――大人の観客の中にはウェンディに自分を重ねる方が多いようですが、フック船長も重ねうるキャラクターなのですね。
「と思いますね。フック船長は一見、悪役であったりコミカルなキャラクターに見られがちですが、たまにフックが一番正しいことを言ってるような瞬間があります。“不公平だ”という台詞には、なぜ時間を平等に与えられていないんだという叫びが込められていたり…。それをファンタジーの世界で投げかけているんですね。実際に演じる側になって、こんなにも深い話だったんだと痛感しました」
――昨年の舞台では、ピーター・パンもただただ子供のままでいてハッピーというのではなく、寂しげに歩いているシーンがありました。彼の中にも孤独があり、どのキャラクターにも影があるということなのですね。
「ピーターは一人になることが怖いんです。仲間たちといつまでも子供のままでと思っているけれど、彼らはいつか大人になっていき、その姿を見ると裏切られたという気持ちにもなってしまうのでしょうね」
――続演となる今回は、どんなテーマで取り組んでいらっしゃいますか?
「“頑張らない“というテーマでいこうかなと思っています。というのは、こういう力強い役を続演すると、どうしてもお芝居がプラスアルファになりがちなんです。2年目になるとある程度、自分の血と体にフック船長が染み込んでいますが、そのうえで頑張った芝居をしてしまうと、本当にコミカルな人になりかねません。コミカルな部分はちょっと削ぎ落し、シンプルに作ってみようかと思っています。
また、僕や山﨑さんは去年から、ウェンディの鈴木梨央さんは初めて、タイガーリリーの住玲衣奈さんは去年、モリビト役でしたので役替わり、そして2年ぶりにダーリング夫人役に戻って来られる壮一帆さん…と、いろいろな道のりを歩んできた人々が集まることで、同じことをやっていても、生のお芝居なのできっと変わっていくと思うんです。僕自身はそぎ落としつつ、新たなキャラクターとの交流を楽しみ、自然に生まれたものを足していけたらと思っています」
――本作はファミリー・ミュージカルでもありますが、これだけ現実世界が過酷な中で、子供たちには本作をご覧になって何を受け取ってほしいと感じますか?
「こんなにネットが溢れた社会の中で、生身の芸術の世界に足を運ぶということ、それ自体、非常に大きいことだと思うんです。劇場に来てみんなで一緒に、2時間、3時間を過ごす。これがどれだけ豊かなことか、劇場に来たお子さんたちは、きっと実感して帰ると思うので、それだけで充分だなと思います。
昨年初めて出演してみて、こんなに毎年やっているミュージカルなのに、ほとんど毎公演満席ということにも驚きましたが、今時のお子さんたちが、スマホに気をとられらたりすることなく、本当によく集中して観てくれるんですよ。“ピーター頑張れ”とか声をかけてくれる子もいたりして、感動しました。
子供の素直さって、時代が変わっても変わらないですね。周りの大人次第なのでしょうね。僕も幼い頃からずっとエンタテインメントに染まって生きていますが、大人たちが子供に何を与えるかで子供の価値観は全然変わるんだろうな、ネットの社会も素晴らしいけれどぜひ生の体験をさせてあげてほしいな、と思います」
――24年版の『ピーター・パン』は、どんな舞台になったらいいなと思われますか?
「昨年、山﨑玲奈さんの新たなピーター・パンが誕生しました。彼女の演技は『アニー』をやった頃から観ているだけに、この歴史ある役を彼女が演じたことは僕としても嬉しかったし、今年はこの1年間の蓄積が観られるだろうと思っています。ピーター・パンとして、決して“大人”にならずに、いかに踏み込んだパフォーマンス、生きざまが観られるかというのが大きな見どころ、要になっていくかと思います。稽古では自分のことで精一杯だけど、それとは違うところで、若い俳優が育つ姿を見守れるのも楽しみだし、豊かなことだと思っています」
――他の業界同様、演劇界は近年、コロナ禍によって甚大な被害を受けましたが、公演中止といったこととは別に、例えば演技そのものへの影響もあったとお感じでしょうか。
「コロナが起こした分断が演劇界にもたらした影響は感じます。というのは、僕らは3、4年間、ずっとマスクをして稽古をしてきたじゃないですか。そうして突然マスクをとって本番になると、密接なやりとりが成立していないことがあるんです。マスクの中で台詞を喋ることで、自分だけで芝居をしてしまう。ラブシーンでなくても、例えば友人同士の芝居でも、密接度が低くなってしまっている瞬間を非常に感じました。
でも稽古環境も少しずつもとに戻ってきているので、今は俳優同士の芝居の密接度を早く取り戻そうとしています。コロナ禍の中でデビューした若い俳優はたくさんいますが、彼らの価値観はどこかドライで、それはコロナ禍によって引き起こされた障害だと感じます。それは僕らで取り戻していきたい、と思っています」
(取材・文・撮影=松島まり乃)
*無断転載を禁じます
*公演情報『ピーター・パン』7月24日~8月2日=東京国際フォーラム ホールC
以後、愛知・広島・魚津・大阪で上演 公式HP
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