穏やかなピアノの音色とともに、傾斜舞台の左右から歩み出る少女と女性。舞台前方に腰かけ、絵を描き始めた少女=過去の自分を見つめながら、女性はどこか懐かしい旋律に乗せ、歌い始める。
“この小さな 紙切れには…”
自分のいる世界、そして大切な人々の存在を、絵の中に描きとめようとする彼女の周りに人々が現れ、歌声は大きなうねりとなってゆく。
しかし優しさと喜びに満ちた空間は、曲終わりとともに一変。
舞台からは色彩が失せ、布団の中のすずは“歪んだ世界”を苦し気に見つめる。昭和20年6月22日、彼女は“大切なもの”を二つなくしたのだった。
物語はすずの少女時代へと遡り、この日に至るまでの出来事を追って行く…。
こうの史代さんが2007年から09年にかけて連載し、TVドラマや劇場アニメーション映画化もされ多くの人々に愛されてきた漫画がミュージカル化。東京公演を皮切りに、全国ツアーを行っています。
第二次世界大戦下、呉市の青年・北條周作のもとに嫁ぎ、周囲の人々と支えあいながら懸命に生きる主人公・すずの物語を、脚本・演出の上田一豪さんは連載前の“前日譚”的エピソードを盛り込みながら構成。登場人物たちの縁が浮き彫りとなり、“この世界の片隅”で生まれる何気ない出会いが、いっそう愛おしく感じられる台本となっています。
また演出面では、二村周作さんによるシンプルかつフレキシブルな舞台美術の中で俳優たちのエネルギーを存分に引き出し、町の賑わいや祝言シーン等では明るく、活気漲る空気を醸成。シリアス一辺倒ではない、メリハリのある舞台に仕上げられています。
全編を彩るのは、シンガーソングライターとして活躍後、米国でミュージカルの作曲を学んだアンジェラ・アキさんの楽曲。冒頭の「この世界のあちこちに」はじめ、“親しみやすさ”“印象深さ”を兼ね備えたナンバー揃いですが、中でも慣れない家事に奮闘するすずを、周作がつかの間のデートに誘うデュエット「醒めない夢」では、オリエンタルかつ端正な旋律に二人のささやかな“ときめき”が凝縮。“日本のミュージカルらしさ”を体現する一曲となっています。
一方では“ばけもの”との遭遇を描く「広島の橋の上」や小林夫妻による祝い唄、隣組の主婦たちによる「隣組マーチ」等で、随所に当時の日本の流行歌や民謡・童謡の風合いもまぶされており、相当のリサーチがなされた上で本作の“音世界”が構築されたのであろうことがうかがえます。
表情豊かな歌声で楽曲の魅力を浮き彫りにしつつ、主人公・浦野すずに命を吹き込むのは、昆夏美さんと大原櫻子さん(ダブルキャスト)。昆さんすずはおっとりとした口調と佇まい、大原さんすずは芯の強さは見えながらもどこか天然なオーラ、とそれぞれの持ち味を活かしつつ、心を寄せずにはいられないヒロインを体現しています。
すずの夫・北條周作役は海宝直人さん、村井良大さん。海宝さんの周作には口数が少ないながらも誠実な男性の色気が覗き、村井良大さんの周作像には、すずが迷いなく北條家をホーム、自分の居場所と感じるに足る温かみが滲みます。
すずが道に迷って偶然出会い、友情を育む遊女・白木リンを演じるのは平野綾さん、桜井玲香さん。平野さんのリンには人生を悟ったかのような諦観が漂い、桜井さん演じるリンは、悲しみを宿した目に何かを訴える力があり、観る者を引き込みます。
すずの幼馴染で淡い初恋の相手でもある水兵の水原哲役は小野塚勇人さん、小林唯さん。小野塚さんの哲は北條家を訪ねるシーンでの、すずの手に触れ「やわいのう」という台詞に彼女のみならず“生”そのものへの執着が滲んで切なく、小林さんの哲は立ち姿と口跡の清々しさが際立つだけに、前述シーンで一瞬見せる“揺らぎ”が人間的。
すずの妹、すみ役の小向なるさんは、甘やかな声が妹のキャラクターによく合い、前半にすずとの仲の良さがしっかり印象付けられることで、後半の悲劇味がさらに濃いものとなっています。
周作の姉で、夫が病死したために長女・晴美とともに実家に戻り、両親やすずたちと同居する黒村径子を演じるのは、音月桂さん。もと職業婦人でファッションを楽しみ、夫とは恋愛結婚。“ぼーっとした”すずとは対照的なしっかり者の女性像を、嫌味なく見せています。
そんな径子が大きな不幸の後、気力を失ったすずに対して “自由になれ 選んだ場所が自分の居場所”と語り掛ける大曲が「自由の色」。悲しみ、怒り、絶望、無念…様々な思いがないまぜになりながらも、今ある“生”を肯定しようとする径子のメッセージが、音月さんの渾身の歌声を通して場内に響き渡ります。
呉の空襲、そして広島の原爆によってすずたちの世界は大きく“歪められ”ますが、やがて彼女の中に一つの思いが湧き上がり、すずは新たな一歩を踏み出します。上田一豪さんが長年、自身の劇団Tip Tapの作品で描いてきたテーマにも通じる、すずの“喪失の克服”は、最後のナンバー「この世界のあちこちに(この世界の片隅に)」で“みんな”によって、切なくもこの上なく温かく表現(特にすずの兄、要一の発するワンフレーズが象徴的)。きっと観る人もそれぞれに、愛しい誰かを思いたくなる幕切れです。
(取材・文=松島まり乃)
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*公演情報『この世界の片隅に』5月9~30日=日生劇場、6月6~9日=札幌文化芸術劇場Hitaru、6月15~16日=トーサイクラシックホール岩手(岩手県民会館)大ホール、以降7月28日まで、新潟、愛知、永野、茨城、大阪、広島で上演 公式HP
舞台映像PV https://youtu.be/-nNTNlwGb3s