幕の前に一人の男が現れ、手にした鋏で紙を切る。空間を切り裂くシャープな音。続いて一台のピアノがそろそろと探るように、“不思議なリズム”を刻み始める。
音楽が主旋律に差し掛かると、投影された群像に命が吹き込まれるがごとく、白い衣裳の人々――“白人たち”が、幕の向こうから(文字通り)抜け出してくる。1902年、丘の上に一軒家を建てた、裕福な工場経営者の“ファーザー”。家を守ることが務めであり、夫に守られている自分を幸せだと思っている“マザー”。ファーザーの工場で働いているが、まだ心から打ち込めるものがない、という“ヤンガーブラザー”…。優雅な物腰でポーズをとりつつ、彼らはNY郊外での穏やかな日々を語る。
シンコペーションを特徴とした楽曲が賑やかさを増し、カラフルな装いの活気溢れる一団――アフリカ系アメリカ人たちが現れる。成功したピアニスト、コールハウス・ウォーカー・Jr.の演奏に酔いしれながら、日常の苦難を忘れるように彼らは踊り、この音楽を“俺たちのラグタイム”と呼ぶ。
そこにクラリネットのもの悲しい音色が重なり、鼠色の衣服を着こんだユダヤ系の人々に脚光があたる。はじめに登場した男ターテ(イディッシュ語で“父”)もその一人。ラトビアでの貧しい暮らしを捨て、幼い娘とともに新天地アメリカ行きの移民船に乗り込む彼の言葉は、悲痛な決意に満ちている。
こうして舞台上には3つの異なる人種グループがひしめき、20世紀に踏み出したアメリカの混沌を象徴するかのように、肉厚のコーラスと多彩な音色が場内に鳴り響く…。
E.L.ドクトロウのベストセラー小説(1975年)を舞台化し、98年にブロードウェイで開幕。トニー賞では13部門にノミネート、4部門を受賞した『ラグタイム』が、四半世紀を経て日本に上陸しました。
20世紀初頭から第一次大戦前夜のアメリカを多面的に切り取った本作には、前述のキャラクターにとどまらず、自動車王フォードや奇術師フーディーニ、アナーキストのエマ・ゴールドマンら、実在の人物も多く登場。原作小説では彼らが主体の章も頻出し、目まぐるしく主人公が入れ替わります。
舞台化にあたって脚本のテレンス・マクナリー(『蜘蛛女のキス』『アナスタシア』)は、複雑に枝分かれし絡み合う群像劇を、わかりやすく再構築。(原作から割愛されたエピソードの中には、ターテと女優のイヴリン、ヤンガーブラザー、エマ・ゴールドマンの奇妙な縁、イヴリンが受けてきた性的虐待の過酷さなど、衝撃的な箇所も少なからず存在。原作を読んでいるか否かで、例えばイヴリンというキャラクターの印象は大きく変わるかもしれません)。
人間関係を整理する一方でマクナリーは、マザーとターテがすれ違う一瞬の光景を、二人が言葉を交わし、偏見を持たないマザーにターテが感銘を受ける場面として膨らませ(Nothing Like The City)、マザーが白人とアフリカ系、白人とユダヤ系を繋ぐ、ある種フォーカルポイントとなってゆくことを印象づけています。
今回の藤田俊太郎さんの演出ではさらに、1、2幕ともターテが幕前に現れ、アーティストとして物語を描き出すていで開幕。はじめに彼の視点が与えられることで、観客は“誰もが主人公”に見えるオープニングにも迷いなく、スムーズに作品世界へといざなわれることでしょう。また彼が水先案内人となることで、ラストの彼の夢想はより明確に、作品全体のメッセージとして浮かび上がります。
前田文子さんの衣裳、エイマン・フォーリーさんの振り付けは三つの人種グループを鮮やかに描き分け、音楽面では音楽監督・江草啓太さんのもと、田邉賀一さん指揮のオーケストラが緻密かつダイナミックに演奏。ジャズの源流と呼ばれるラグタイムを、ふんだんに取り入れたスティーヴン・フラハティのスコアの魅力を、余すところなく伝えています。
富と貧困、様々な人種や文化、思惑、夢が入り混じった人間模様を、キャストは生き生きと体現。中でもターテ役の石丸幹二さんは、原作では必ずしも手放しに感情移入できる役柄とは言い難いものの(一家は妻マーメを含めた3人で渡米し、ある事情で父子家庭となります)、舞台版では子供のために必死に這い上がろうとする姿が前面に押し出された彼を、人間味豊かに造型。旋律をふくよかに聴かせながら一言、一言を的確に届ける歌唱が味わい深く、特にアメリカに上陸し希望を持って働き始めるも挫折し、奮起を誓う長大なナンバーSuccessが出色です。そんな石丸ターテがついに成功した後、マザーに向かって自分が何者かを語る台詞にはしみじみとした実感が溢れ、多くの人をほろりとさせることでしょう。
自分の子を産んだ恋人サラとよりを戻して幸福感に浸るも、悲劇に巻き込まれ変貌してゆくコールハウスを演じるのは、井上芳雄さん。原作ではマザーの家に突然、謎めいた"礼儀正しい男”として現れますが、舞台版では仲間たちがその半生を歌い(His Name Was Colehouse Walker)、"彼女の為、生き方を変えよう”と彼が決意する瞬間も喜びをもって描かれます。サラを訪ねる際の紳士的なふるまいには固い意志を、その手に銃をとってからは、長く差別を経験してきたアフリカ系の憤怒の血を全身に漲らせ、井上さんは強烈なリアリティをもってドラマを牽引。
上流の白人社会でいわゆる“良妻賢母”の役割を立派に務めるも、次第に言いようのない欠落感を大きくして行くマザーを演じるのは、安蘭けいさん。庭で掘り起こした赤ん坊とその母サラをためらいなく保護し、その恋人コールハウスとも、後に出会った外国訛りの映画監督ともフラットに交流するマザーは、当時の白人社会ではかなり異色の女性であったことでしょう。安蘭さんがしなやかに演じるマザーには無意識の"人間愛”が宿り、彼女が語る(歌う)迷いも等身大。ターテが見る夢をともに実現する姿にも気負いはなく、共感を呼びやすい存在となっています。
冒頭で人種ごとに三つのグループに明確に分かれていた人々は、ラストで溶け合い、一列になって同じ歌を歌います。100年前の米国の物語を通して、舞台は今を生きる人々に希望のメッセージを投げかけますが、2023年の世界は彼らが夢見る“調和”から、あまりにも遠く…。
晴れやかであると同時に、どこか背筋を正したくなる幕切れと言えるかもしれません。
(取材・文・撮影=松島まり乃)
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