鐘楼で暮らす主人公カジモドと彼を巡る人々の愛憎を描いた『ノートルダムの鐘』が、現在、京都で上演。5月からは東京で上演されます。
1996年のディズニー映画でアラン・メンケンが手掛けた楽曲が使用されているものの、内容的にはヴィクトル・ユゴーによる原作『ノートルダム・ド・パリ』に立ち返り、残酷にして美しい物語を演劇的に表現。イマジネーションを喚起するスコット・シュワルツの演出は各地で絶賛され、日本でも多くの人々を魅了しています。
この舞台に2016年の日本初演以来、大助祭フロロー役で出演し続けているのが野中万寿夫さん。これまで頼れる男からユーモラス、憎々しい人物まで多彩な役柄を演じ分けてきた大ベテランですが、本作を、そして主人公の保護者でありながら彼の愛する者を追いつめてゆくフロロー役をどうとらえているでしょうか。“気づきにくいかもしれないけれど見逃せない”ポイントなども含め、じっくりお話いただきました。
【あらすじ】15世紀末のパリ。ノートルダム大聖堂の鐘楼で暮らすカジモドは、年に一度の祭りに憧れて初めて鐘楼を抜け出し、ジプシーの娘エスメラルダに出会う。カジモドを厳格に育ててきた大助祭フロローもエスメラルダに惹かれ、大聖堂に迷い込んだ彼女に言い寄るが拒絶される。激怒したフロローはエスメラルダを魔女として捕らえようとし、それを知ったカジモドは、彼女を庇って負傷した警備隊長フィーバスとともに危険を知らせようとするが…。
――野中さんにとって、本作はどんな作品でしょうか?
「僕は劇団四季に入ってからずっとストレート・プレイに出たことが無かったのですが、本作はミュージカルでありながら、ストレート・プレイの要素を持ち合わせています。台詞の力が素晴らしい音楽とあいまって、ものすごく作品の力に繋がっているのではないでしょうか。初演から500回近く出演していますが、演じる度にそう感じます」
――500回も演じていらっしゃるのですね‼
「そうなんです。それだけ公演が続いているということですよね」
――野中さんのフロローは弟に対してとても愛情深く映りますが、だからこそ、弟から赤ん坊を託された瞬間に愛情を抱くのではなく、“背負うべき十字架”ととらえる姿が衝撃的です。
「その部分が原作とミュージカルでは少し異なっていて、原作では弟と赤ちゃんは血が繋がっていないのです。フロローは子どもを拾って育てることで、弟のために徳を積んであげようとする、という描き方をしています。いいことをする、徳を積むということがフロローの愛し方なのでしょうね。赤ちゃんを育てて正しい道に導いてやろうというのがフロローなりの正義であって、それが“十字架”という言葉に出ているのかもしれません」
――子供を外界と触れさせず、自分の価値観だけで育てる姿は、子育て中の観客からすれば、どこか反面教師的に映るかもしれません。
「そうかもしれません。ただ、フロローとしては“この子がちゃんと育つように”という気持ちでカジモドに接していて、そこには一点の曇りもありません。親であれば誰しも“この子をまっすぐ育てよう”と思うものだと思いますが、フロローもきっとそうだったと思います。だから(それまで素直だったカジモドが)途中で様子が変わってきて“お前、何かおかしいぞ”と疑問を持ち、それからは余計に正しい道へと戻そうという気持ちが働いてしまうのだと思います」
――聖職者であり、カジモドの“保護者”であったフロローですが、祭りの日にエスメラルダに出会い、心惹かれたことで、“男”としての一面も呼び覚まされます。
「苦しい恋心が芽生えてしまうのですが、フロローの宗教観としては、恋に惑わされる=堕落という考え方なので、そこには魔術的な力が働いていると解釈してしまいます」
――ということは、彼はそれまで女性に対して愛情を抱いたことは…
「無かったのでしょうね。それまでのフロローは、女性のみならず、“庶民”全員をどこか見下していた部分があったかと思います。それなのに、女性に対して恋心が芽生えてとまどう。恋などというものは封じ込めていただけに、爆発する力が大きくなったのではないかと思います」
――それまでのフロローであれば従順な女性に惹かれそうなものですが、対極的と言ってもいい、自由な生き方をしているエスメラルダに惹かれてしまうという…
「忌み嫌っていたジプシーですから、何故?と思いますよね。でも、どうしても抑え込み切れない、人間の本能の部分が刺激されたのでしょうね、彼女によって。フロローにもわからないんですよ。この人の何がこんなにどきどきさせるんだろう、と。恋ってそういうところ、ありますよね」
――自由という、それまで触れたことのなかった概念を体現していることで興味を抱いてしまったとか?
「フロローは2幕で、“人は時として、受け入れがたいと思う相手に引きつけられる……”という台詞を言うんです。ある意味、真理をついているような気がしますね」
――彼は出世街道を驀進していたようですが、それは権力の頂点に行きたいというより、神に近づきたいという思いからだったのでしょうか。
「僕はそういう解釈です。それは結局は出世に繋がりますが、彼としては純粋に、神の近くへという一心だったと思っています。しかし、彼女のせいで人間に引き戻されてしまった。もともと人間であれば素直に彼女に愛の告白をしたかもしれませんが、自分は神に近い存在というプライドみたいなものを傷つけられ、フロローの中には、人間に戻されたという恨みみたいなものがあるのではないかと思っています」
――だからこその、あの激烈な行動に繋がるのですね。その後、フロローはカジモドに対して、また二人の暮らしをリスタートしようというようなことを言いますが、彼としては晴れやかな心境でしょうか?
「晴れやかとは言い難いですよね。また今まで通りに暮らしていけるはずなのに、なんだこの虚無感は…という思いがあって、心が揺れる。カジモドはこの件を通して本当の愛とは、本当の自由とは何だろうと考え抜いて苦しんで成長を遂げているのに、フロローはそれに気づかない…という図式になっていますね」
――カジモドは短い間に著しい成長を遂げますが、フロローは精神的には…
「もしかしたら退化しているかもしれないですね。10代くらいに戻ってしまっているかもしれません」
――でも最後まで、カジモドは自分が導いてきた、従順な子どものままだと思っているわけですよね。
「はい。ああいう展開になるとは夢にも思っていなかったと思います」
――フロローとしてはどのあたりが第一の山場でしょうか。
「やはり「地獄の炎」という、内心を吐露するナンバーですね。彼は(聖職者として)ずっと仮面をつけていなければならないけれど、その仮面をとりたくてしょうがなかった。一人になることで遂に仮面をとって歌う、ここがピークになっていて、そこから転げ落ちていく、そのきっかけになるようなナンバーです」
――静かに始まりますが、徐々に迫真の決意表明となって行きますね。“ここから先は引き返せない”というほどの…。
「他のキャラクターもそうですが、本作では全員がそれぞれの正義を貫いていて、それらが複雑に絡み合って衝突が生まれます。その一番強いところにいるのがフロローという位置づけですね」
――開幕から7年目となりますが、その間に本作の見方がより深まった、変わったと思われる部分はありますか?
「自分が変わったというよりは、この数年で、世界情勢がどんどん変わっています。憎しみが渦巻いたり、病気が蔓延したり…。事実は小説より奇なり、ではないですが、現実のほうが作品に寄ってきているような気がしてなりません。移民の問題や戦争の報道に触れるたび、人間のエゴはどうしてもなくならないんだな、と痛感します。本作は他者をどう受け入れるかを問いかける作品ですが、時代が変わっても人間は同じことを繰り返しているんだなと思いますし、そこが本作の刺さるところではないかと思います。昔の話ではなく、今の話なんですよね」
――エスメラルダが願う「いつか」は、時を経てもまだ…。
「残念ながら来ないですね…」
――この舞台版は、会衆が演じる劇中劇であるという設定ですが、劇中劇であることの意味はどんなところにあると思われますか?
「会衆という、観客の隣人のように感じられる存在が演じることによって、“板の上の俳優さんたちが演じる話”ではなく、お客様に“自分事”としてとらえていただく演出なのかな、と思います。今日は私たちが演じますが、来年はあなたにやってもらうかもしれないですよ、と。すると観ていても入りやすいし、自分だったらどの役をやろうか、と想像もしていただけますよね。観客に寄り添う劇、という位置づけなのではと思います。
――初見ではわかりにくいかもしれないけれど、実は見逃せない…といった演出はありますか?
「プロローグで会衆の一人がカジモドになるのですが、その変身過程に誰が関わっているか、注目してみてください。あのシーンで舞台袖からカジモドの背中のコブを持ってくるのは、後にフロリカ、つまり、カジモドに肉体を与える人物を演じる俳優です。そして僕は緑のおくるみを広げ、それはカジモドの衣裳になります。つまりカジモドを育てる存在となるわけです。このプロローグで既に、衣裳を通して関係性が生まれているというのが興味深いですよね。
ラストのあの演出も、僕は最高の演出だと思っています。みんなどこかに邪悪さを持っている。純白な心も持っている。両方持ち合わせているんだよ、とつきつけてくる。強烈な演出です」
――“知られざる”ご苦労などはありますか?
「フロローは、実は階段の上り下りが多いんです(笑)。奈落から上がってくるためには一度降りていかないといけないですしね。この前数えたら、9往復しています。しかもテンポよく上がったり降りたりしないといけないですから。出演が決まると、もちろん台本も読み込みますけれど、フロローに関してはまず足腰のトレーニングも大事です」
――連日演じていらっしゃると、役が役だけに精神的にお疲れにはなりませんか?
「僕、これまでも最後にああいうことになる役が多いんです。『美女と野獣』のガストンや『ライオンキング』のスカーもそうでした。しんどくないですかとよく聞かれますが、歌舞伎の大見得のように華やかな演出だと思っているので、しんどさはないんです。
ただ本作に関しては、毎回女性に(嫌われて)ひっかかれたり唾を吐かれたりして、ちょっとメンタルに影響する部分もありますが、それは同時に役者としての見せ場でもあります。主人公だとこういうことは経験できませんものね。ある意味、勲章です(笑)」
――現在、京都で上演中ですが、この後、東京公演も予定されています。御覧になる方にこういうメッセージが届くといいなと思われるものはありますか?
「いつも幸せでいられるということはなくて、誰しもいろんな壁や障害と闘ったりしている。それが人生なのだろうと思いますが、それを如実に表しつつ、希望を持って手を取り合って生きて行こうよ、ということを投げかけている作品だと思っています。きっと何か光を見出していただけるのではないかと思います」
――プロフィールについても少しだけうかがいたいのですが、野中さんは1984年に初舞台でいらっしゃるので今年、39年目ですね。
「来年40周年ですね。あっという間ですね。ずっとお芝居のことを考えてきましたが、それは本当に幸せなことですね」
――圧倒的に頼れるオーラが漲っていた『キャッツ』のマンカストラップも印象的でしたが、『夢から醒めた夢』では、味わいのあるヤクザ役を長く演じられました。
「ありましたね、そういう役も(笑)」
――振り返られて“いい39年だったな”という感慨はありますでしょうか?
「そうですね。年齢に即して、自分が生き生きできる役に巡り合ったので、すごく有難かったです」
――四季にいて良かったなと思われるのはどんな点でしょうか?
「先輩から教わることもありますし、後輩とも演技について議論する
がいつもあるということが全体のレベルアップに繋がっている気がします。今は本当に上手な子たちが入ってきますが、彼らを含めてみんなでセッションしたり議論出来る点で、劇団四季っていいなと思います」
――どんな表現者でありたいと思っていらっしゃいますか?
「観客に寄り添いたいですね。観客の気持ちを代弁するような役者でありたいです。といっても悪役が多いので、寄り添うというのはどういうことか、疑問かもしれませんが(笑)。悪いことをするとこういう目にあうんだよ、と反面教師のようにとらえていただければと思います」
(取材・文=松島まり乃)
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*公演情報 劇団四季『ノートルダムの鐘』上演中~4月9日=京都劇場、5月14日~8月6日=JR東日本四季劇場[秋]公式HP