緊張を孕んだヴァイオリンと重々しいパイプオルガンの音色に、雷鳴が重なり、幕が開く。
“アナテマ(呪われた)…アナテマ…”
とある邸宅の敷地内。白い僧衣に身を包んだ人々が悪魔祓いをするかのように練り歩き、座り込んだ娘が耳を塞いでいる。屋敷の執事、アルマンドは彼女を見とがめ、何者かと警戒するが、アーシャと名乗る彼女は大切に飾られたヴァイオリンを懐かしむように眺め、持ち主の物語をせがむ。心を許したアルマンドは、今は亡き主人、ニコロ・パガニーニの生涯を語り始める。
“こんな話を聞いたことは?
町はずれの十字路には、悪魔がひそむ…”
1782年、ニコロ・パガニーニはジェノバで生まれた。母テレーザは幼いニコロに音楽の才能を見出し、生活をきりつめて町一番のヴァイオリン教師に習わせるが、師コスタは調子のいいことを言っては金を巻き上げるばかり。成長したニコロは、自分に才能はあっても決して天才ではなく、頭の中の至高の音楽を体現できないことに苦悩していた。
そんなある日、練習のため町はずれに出かけたニコロは、一人の男と出会う。
アムドゥスキアスと名乗る彼の正体は、音楽を司る悪魔。彼はニコロの悩みを言い当て、命と引き換えに最高の音楽を100万曲演奏させよう、ただしどの曲も私のために演奏し、私が弾けと言った時に弾くのだ、と持ち掛ける。
ニコロは悪魔と契約し、瞬く間に超絶技巧を駆使した演奏で名を馳せる。富を築き、ナポレオンの妹、エリザ・ボナパルトにも愛されるが…。
音楽朗読劇の第一人者と呼ばれ、「VOICARION」シリーズなどで好評を博してきた劇作家・演出家の藤沢文翁さんが、多くの作品でタッグを組んで来た作曲家の村中俊之さんとともに、満を持してミュージカルを創作。第一作のモチーフに選ばれたのは、19世紀に活躍したヴァイオリニストで、卓越した技術の持ち主であったがために“悪魔に魂を売り渡した”と噂された、ニコロ・パガニーニの「人生の岐路の選択」の物語です。
藤沢さんに大きな影響を与えたという『オペラ座の怪人』へのオマージュが見て取れる幕開けを経て、中世のバラード風に始まる楽曲でニコロの生涯を語り始めるのは悪魔アムドゥスキアス。まるで際限なく高みへと上がってゆくかのような旋律が、この世の者ではない悪魔という存在に説得力を与え、観客を一気に奇想天外な物語世界へと引き込みます。
悪魔との取引は、キリスト教世界における最大の禁忌の一つとあって、それを犯した主人公はゲーテの『ファウスト』同様、過酷な運命に直面します。特にニコロを苦しめるのが、どの一曲も悪魔に捧げるという決まり。理想の音楽を奏でることが出来るようになっても、母を思ってさえ弾く事が叶わず、音楽は“束縛”と化してゆく。そんなニコロにとって、音楽=“自由を与えるもの”ととらえるアーシャの出現は衝撃であり、同時に救いであったのかもしれません。
1幕のクライマックスは異端審問の場。ニコロの超絶技法を駆使した演奏が“存在しない技法を操っている”と恐れられ、大聖堂で説明を求められるのですが、ここでは大司教の台詞を悪魔が喋り、大司教は“人形振り”をするという演出が見られます。大司教さえ意のままに操る悪魔の全能ぶりが強調され、もはや人間の抗う余地は無く、ニコロはなされるがままなのか…。1幕ラストの光景ともども、2幕への興味がいや増す仕掛けと言えましょう。
村中俊之さんによる楽曲はクラシック調からロック、ラップ、ラテンまでバラエティに富み、各場を豊かに彩ります。前後で言及する楽曲以外では、悪魔がエリザをニコロに引き合わせようと誘惑するタンゴ「Tango To Sin」での、中川さんと青野さんの声が独特の緊張感をはらみながら絡み合うハーモニーにスリリングな面白さが。またエリザのバラード「離れれば離れるほど愛」での、“愛しただけ”“嘘にまみれた”等の歌詞とメロディの完璧な調和も耳に残ります。
悪魔アムドゥスキアス役の中川晃教さんは冒頭のテーマのサビ終わりで“悦楽の調べ・に”と最後の一音をふわりと置くなど、高難易度と思しき楽曲を楽譜通りに歌いこなした上で自身のニュアンスを加える歌唱、高音の響き、人間たちの人生を朗らかな口跡で操る様がまさに悪魔的。マントのあしらいも颯爽として実に楽しげ、これ以上ないほどのはまり役です。
ニコロ・パガニーニ役(相葉裕樹さんとのダブルキャスト)の水江建太さんは意志の強さが立ち姿に滲み、平素の冷静な口調と気心の知れたアルマンドに見せる甘えたような素顔のギャップ、音楽をダンスで表現するシーンで“ギアが入った”とばかりに見せるダイナミックなパフォーマンスが印象的です。
アーシャ役の早川聖来さんは物おじせず、ポジティブなオーラが、影を抱えたニコロと好対照。差別を受けてきたジプシーの自分にとって音楽は“自由”を表すものであり、だからこそヴァイオリンを教えて欲しいとニコロに頼むくだりでの、音楽を感じ、心から楽しむ身体表現(ダンス)が光ります。エリザ・ボナパルト役の青野紗穂さんは、寂しさを抱えながらも他人を寄せ付けず、やっと出会えた“真実の愛”も愛するがゆえに手放す女性の悲しみを歌声に込め、余韻を残します。
畠中洋さんはコスタの浅ましさを“才能、才能”のリフレインで巧みに表し、ベルリオーズ役では誠実な作曲家を体現。ニコロが発した遺言ともとれる“十字路でのアドバイス”を、ベルリオーズが真摯に受け止め、彼への見方を改めるナンバー「迷い子」は、本作の隠れたクライマックスの一つかもしれません。戸井勝海さんが演じるアルマンド(山寺宏一さんとのダブルキャスト)は、主人の帰りを寝ずに待ちますが、律儀さからというよりニコロへの情からと見え、彼の無事を祈る「Prayer of Rage」の歌声には父親にも似た深い愛が滲みます。
悪魔祓いをする修道士に貴族に港町の人々…と、主人公ゆかりの地の人々を演じ分けるアンサンブルは、重厚感・華やぎ・愚かしさと場に応じた空気感を瞬時に表現。歌声もそれぞれに厚みがあり、とても7名のみとは思えない“群衆”感を醸し出ています。
そしてニコロの母テレーザを演じる香寿たつきさんは、初登場時から息子の人生を祝福するかのように現れる終幕まで、一貫して慈愛に満ち、我が子を信じ切る姿が圧倒的。テレーザが繰り返す“彼は大丈夫 私の子だから”という発言は、一見突拍子もなく、非論理的に聞こえますが、子の無事を祈る切なる親心のあらわれとして、世の多くの親の共感を呼ぶのではないでしょうか。
人間という儚い生き物が悪魔という、人知を超えた存在に踊らされる物語と見えて、実のところ、死してなおとどまり続ける母の愛に守られ、後世に残る音楽と伝説を残す…。様々な見方が可能な本作ですが、こうした“弱き人間の強靭な愛”の物語として観ることもできる作品と言えましょう。
《6月26日公演ミニ・レポート》
アーシャ役の早川聖来さんの体調不良により24日の公演が中止となり、26日、それまでアンサンブルで出演していた宮田佳奈さんが代役を勤める形で、上演が再開しました。
筆者は宮田さんについては所属されている劇団イッツフォーリーズでの活躍も拝見していたため、代役姿はある程度予想できましたが、アンサンブルの再演出はどうなるのか。7名のアンサンブルから1名が抜ける場合、フォーメーションや台詞の割り振り、コーラスのバランスはどう変化するのか。はやる気持ちをおさえながら着席しましたが、実際の舞台は当初の形が思い出せないほど、視覚的にも音的にもスムーズに進行。改めて“プロフェッショナリズム”というものを目撃した思いでした。
この日のキャストのほとんどは前述のレポートと同一ですが、ダブルキャストで前回と異なったのが、アルマンド役の山寺宏一さん。冒頭、アーシャ(と観客)をニコロ・パガニーニの世界へといざなう台詞を放つ際の気迫に、なみなみならぬものがあり、終盤の「Prayer of Rage」では、渾身の力で神にニコロの救済を(歌いかけるというよりも)訴えかける姿が胸を衝きます。この直後、周囲ではハンカチを取り出す姿があちこちに見受けられました。
そしてアーシャ役代役の宮田さんは、明瞭な台詞と歌声でアーシャの言葉を力強く観客に届け、好奇心で目を輝かせたり口をとがらせたりと、表情も豊か。「Asha The Gypsy」では恍惚の表情が見て取れる瞬間があり、ここも『オペラ座の怪人』オマージュかと大いに楽しませてくれます。
さて最後のシーンが演じ終えられると、場内は堰を切ったように熱い拍手に包まれました。ごく自然に、客席から(学生からグレイ・ヘアのご夫婦まで)幅広い層の観客が立ち上がります。横一列に並び、どこかほっとした表情のキャストを代表して、中川晃教さんがご挨拶。静養中の早川聖来さんを気遣いつつも、この2日間、皆で手分けをしながら、宮田さんの代役に向けて準備をしたことが語られ、宮田さんはいくぶん恥じらいつつ、深くお辞儀を。そしてその後は平常通りのカーテンコールとなり、中川さん、水江さんがはけ際、観客へのちょっとしたプレゼント(?)で場を沸かせました。
(取材・文=松島まり乃)
*無断転載を禁じます
*公演情報『CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~』6月7~30日=シアタークリエ 公式HP (アーシャ役は30日の千穐楽まで宮田さんが演じることが発表されました)