1987年に創立、『シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ』『マドモアゼル・モーツァルト』ほか多数のオリジナル・ミュージカルを世に送り出してきた音楽座が、アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』を2018年に舞台化。人間の“業”を冷徹に描いた心理ミステリの傑作は、舞台という場を得てどのように表現されているでしょうか。東京再演の模様をご紹介します。
スマホ電源の注意喚起をするていで現れた“ゲッコー(やもり、トカゲの意)”という名の男が水先案内人となり、物語はスタート。時は1930年代、弁護士夫人である英国人のジョーンは、体調を崩した次女を見舞いにバグダッドを訪れ、帰途、大雨によって砂漠で足止めをくらいます。汽車を待つ数日の間、時間を持て余したジョーンは、自らの“来し方”を振り返ることに。夫を支え、3人の子を育て上げた日々。彼らが一時の気の迷いで人生を棒に振りそうになったときには、口を挟み、正しい方向に導いてきた。家族は安泰、全てが素晴らしく、完璧な道のりだった。と、思っていた。
しかし記憶の糸を手繰り寄せるうち、ジョーンの中には一つ、また一つと疑念が生じてゆきます。旅立ちの時、見送りの夫が一度も振り返らず、軽やかな足取りで去っていったのは、なぜだったのだろう。いつか見かけた、夫と“誰か”が丘の上で夕日を眺める後姿は、何を意味していたのだろう。それら一つ一つを自分なりに検証し、関連する別の記憶と照らし合わせる中で浮かび上がってきたのは、ジョーンにとってはあまりに残酷な“真実”だった…。
アガサ・クリスティ原作とはいえ、何か“事件”が起こるわけではなく、実際に起こるのはジョーンの脳内の葛藤のみ。舞台化にあたって、音楽座のクリエイティブ・チームである“ワームホールプロジェクト”は“ゲッコー”というキャラクターを登場させ、『エビータ』における“チェ”のように、シニカルな視線でジョーンの独り言や記憶の断片を批評させます。
またアンサンブルの俳優たちが“女学校時代の級友たち”など各場の“人々”を演じるだけでなく、舞台いっぱいに布を広げ、引き抜くことで場を“浄化”するなど黒子的な働きをしたり、ゲッコーが“人間というのは自分が(世界の)中心にあると思い込む、そしてそのために戦争さえやってのける”と語るそばで、相争い、自滅する人類をムーヴメントで描くなど、抜群のチームワークで多彩な表現を実現しています。メイン・キャストの中では(おそらく)実年齢よりだいぶ年長のジョーンを力強い歌声と居ずまいで体現する高野菜々さん、悪びれもせず拝金主義を高らかに歌うナンバー“生きると書いてカネと読む”を華々しくリードする銀行支店長チャールズ役の新木啓介さんが印象的。
ミュージカルには珍しく、本作のヒロイン、ジョーンは独善的で、終盤のクライマックスである決意をする瞬間までは、なかなか共感しにくいキャラクターです。(例えば『クリスマス・キャロル』のスクルージには偏屈な守銭奴になる背景がありましたが、本作ではそういった“同情要素”がありません)。それゆえ、彼女が次第に見えてきた“真実”(という名の仮説)に衝撃を受ける過程については、気の毒に感じるより、“因果応報”と冷静に受け止める方も多いかもしれません。そうしてふと、そのように感じる自分自身こそジョーン同様、偏狭な正義に囚われているのでは、と気づき、ひやりとさせられる。決して“他人事”ではなく、誰にとっても“自分ごと”になりうる普遍性、鋭さを持つ作品と言えましょう。
(取材・文=松島まり乃)
*無断転載を禁じます
*配信情報 音楽座ミュージカルSUNDAY(サンデイ)舞台映像オンデマンド配信 2021年3月28日~4月4日(販売は4月3日迄)。詳細は公式HPへ。