Musical Theater Japan

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『ボクが死んだ日はハレ』作・演出 石丸さち子:ミュージカルの底知れぬ可能性

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石丸さち子 兵庫県出身。早稲田大学第一文学部卒。俳優としてニナガワスタジオに参加後、蜷川作品中心に演出助手・演出補として活動。09年に演出家として独立、主催劇団Theatre Polyphonicを立ち上げ。作詞や台本執筆も手掛ける。13年ミュージカル『Color of Life』でNYのMidtown International Theater Festivalに参加、最優秀ミュージカル作品賞等を受賞。演出舞台に『スカーレット・ピンパーネル』『マタ・ハリ』『BACKBEAT』等。©Marino Matsushima
かつて芸能界で一世を風靡したミミ、SHOKO、かおり。今や落ち目の3人はプロデューサー、すみ絵の発案でボーカルグループを結成、再起をはかる。テーマソング「ハレバレハレルヤ!」の収録は順調に進む…かと思われたが、ミミが絶不調に。それが彼女の“ある喪失”に関わることを知った女たちは…。
 
人は大切な存在の喪失を、乗り越えることが出来るのか。誰しもが直面する普遍的テーマを時にコミカルに、そして誠実に描き、初演で好評を博した『ボクが死んだ日はハレ』が、一部新キャストを得、会場を赤坂に移して再演。本作の作・演出をつとめる石丸さち子さんに、その成り立ち、今回の見どころをうかがいました(稽古風景の動画もあります!)。記事後半はミュージカルに至るまでの石丸さんの演劇人生、そしてミュージカルというジャンルの可能性、俳優たちへの熱い思いをたっぷりと語って頂いています。じっくりお楽しみください!
喪失の悲しみは、対象を“愛した”証

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『ボクが死んだ日はハレ』
――本作はどんなところからインスピレーションを得て書かれたのですか? 
「執筆直前に母が亡くなったことです。それまで私は死ということが理解できず、たくさんの映画や文学を通して知性で理解しようとしても、本能的な恐怖からは逃れられなかったのですが、亡くなったばかりの、まだ温もりの残る母の手を握るうち、"次はあなたの番ね“と言われた気がして、本能的に怖いものではなくなりました。 
その代わり彼女がこの世界からいなくなったという恐怖感、喪失感に耐えられず、どうしていいかわからないくらい、母の不在が理解できませんでした。その前年に27年間傍にいた蜷川(幸雄)さんが亡くなり、大きな穴が開いていたところにまた大きな穴が開いてしまったんです。でも、それまでの人生で演劇しかやってこなかった私にとっては、自分を救うのもまた演劇だったんですね。そこで”死に向かい合う演劇を作ろう“と思ったんです。 
本作には(大切なものを失うことを意味する)"対象喪失“という言葉が出てきますが、人生というのは出会いと喪失の連続で、失った時に悲しむというのはそれだけ愛した時間があったということだから、その愛をエネルギーに、明日へと一歩踏み出そうという気持ちになってほしい、生きている人にエールを送りたいと思いながら執筆しました」
 
――身近な人の死、という重いテーマをミュージカルで表現するということは、はじめからの構想だったのですか? 
「浦嶋りん子さんと"一緒にやりましょう“と言っていたので、はじめからミュージカルという前提はありましたが、実際に作ってみて、ミュージカルだからこその強みがある、と思いました。作曲の森大輔さんにとって、本作は初のミュージカルでしたが、登場人物の痛ましい心情がこの音楽で?というほど軽やかなリズムや美しいメロディーで表現され、それによって痛みが和らぐのです。初演の時、お客様は笑っていたと思えば泣いてというのが波のように起こって、終演後は死という題材を扱っていると思えないほど、ニコニコしながら劇場を後にして下さいました。自分が思っていた以上にお客様が愛して下さって、初演は幸せな劇場でしたね」
 
――深い悲しみをどう乗り越えてゆくかという命題に対して、様々なアプローチがあるかと思いますが、本作のような展開にすることに迷いはありませんでしたか? 
「主人公が気持ちを切り替えた時、“こっぱずかしいこと言うよ。私は生きてる人からも死んでる人からも愛されてる”と言う。この台詞を着地点にすることに、迷いはなかったですね。 
私自身は屈折したタイプで、それまで人と悲しみを分け合うという事をあまりしないタイプだったのですが、母が亡くなって、そういうことの理解が足りなかったような気がしました。そこでグリーフ・カウンセリングの本をたくさん読んでみたところ、ここでなら何をこぼしてもいいよ、みんな受け止めてあげるよ、とイスを並べて心痛を分け合うカウンセリングの形がある。これは悲しんでもいい“結界”のようだと思い、本作でもこの形をとることにしました。ここでなら、いくら悲しんでも泣いてもいいんだよ、と。ただ優しい芝居ってあまり好きではなかったけれど、本作は“優しい芝居”になっていると思います」
 
――再演の今回、どんな舞台になりそうでしょうか? 
「初演の時はキャパが100もない“風姿花伝”という小さな劇場でやっていて、今回は演技スペースは少し狭くなるけど客席が増えるのと、赤坂という場所もあって、ナンバーを一曲増やしてミュージカル度を上げました。 
また、本作はもともと各キャラクターをあて書きしていた部分があるので、今回、新たに彩吹真央さん、綿引さやかさんが演じる役を書き直しました。彩吹さんについては“かつて”を彷彿とさせるようなナンバーを入れまして、ここが一番ミュージカル度が高いですね。綿引さんの演じる役柄についても、枠組みは同じですが前回とは違った感受性の持ち主になっています。 
生死というテーマを扱っているだけに、演じるにはものすごくエネルギーが必要な作品で、みんなには“とにかく稽古場には元気な状態で来て、それが一番の役作り”と話していますが、みんなエネルギッシュにやってくれています」
 
――どんな方に観ていただきたいですか? 
「作品によっては“こういう方に”というものがありますが、本作の場合、誰もが抱えているテーマを扱っていますので、“みんな”に観て頂きたいです。通りすがりの人にさえも。それだけの普遍性のある作品だと思っています」
 
――下北沢あたりで無期限ロングランが出来たら素敵ですよね。 
「つらいことがあったらふらっと観に行ける、そんな存在になったらいいですよね。本当にそう思います」
 

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稽古風景&キャスト全員・石丸さんからいただいた動画メッセージ(1分ほどの短いものですので、どうぞお気軽にご覧下さい)
演劇少女がミュージカルに出逢うまで
 
――さて、プロフィールについてもうかがいたいのですが、石丸さんは俳優出身ですが、当初いろいろな劇団で武者修行をされていたとのこと。どんな意図があったのですか? 
「“好きなもの”を探していたんです。私は地元(姫路)では子供の頃から演劇をやっていて、18歳で早稲田大学入学と同時に上京して、自分は何が好きなのか探そうと、まずはいろんな芝居を観まくりました。状況劇場に黒テント、寺山修司さんの天井桟敷などを観て廻り、少しでも面白いと思ったらオーディションを受けていましたね。当時一番行きたかったのは、野田秀樹さんの“夢の遊民社”でしたが、オーディションは落ち(笑)、後年、野田さんの『赤鬼』で演出助手をやった時に“昔、落ちたんですよ”と話題にさせていただきました。 
次に好きだったのがシェイクスピアだったので、シェイクスピア・シアターに入ったのですが、一つの劇団でやるということがしんどくなって辞め、私はこれも好きだけどあれも好きというタイプなんだけどな、と思っていた頃に出逢ったのが、蜷川(幸雄)さんの舞台。何本か観る中で、ものすごく高尚なこともやれば猥雑なこともやる、という幅広い世界の愛し方に惹かれ、パルコ劇場の『タンゴ 冬の終わりに』に出た時には、蜷川さんにも主演の平幹二朗さんにもときめいて、誰もいない時間に稽古場に行ってはそこをひそかに独り占めするのが私の喜びでした(笑)。 
そんなわくわくとともにニナガワ・スタジオに入って、俳優として7年過ごしましたが、体調を崩しまして。蜷川さんに“演出の方に転向したい”と相談したら、あっけなく“そっちのほうが向いてるよ”と言われて、“私の俳優人生は何だったんですか!”とも思いつつ(笑)、その日から蜷川さんの隣に(演出助手として)座らせていただくことになりました」
 
――いくら転向したいと言ってこられても、蜷川さんが石丸さんの中に近しい感性を見出さなければ、助手にという展開にはならなかったと思います。 
「有難いことに近しいと思って下さったようです。そのかわり、17年間助手から離れられませんでしたが(笑)。このまま演出助手で人生が終わるかとも思いつつ、自分の看板を背負ってやってみたいという気持ちが生まれてはもみ消し、それがどうしようもなくストレスになってきて、もう体がもたないと思って(助手を)辞めました。その時も蜷川さんは“俺がお前だったらもっと早く辞めてる。好きな事やれよ、金に困った時だけ言ってこい”と言って下さって…」
 
――なんとかっこいい…。 
「かっこいいんです。(思い出すと)涙が出て来ます」
 
――ずっと蜷川さんと一緒にいらっしゃるうち、蜷川さんより早く彼がおっしゃりそうなことが分かってしまったりということもありましたか? 
「ありましたね。でも蜷川さんはなぞるということが嫌いで、同じ事をやらないんですよ。いつも過去の自分を否定しようというところあって、こうくると思ってると、違うところから来る。そんなこともあって、私自身、演出家として“蜷川さんがやっていただろうこと”はやらないと決めています。今、石丸さんらしいと言われることは蜷川さん的ではないことばかりだと思います。 
でも、言葉から(演劇に)入った私がものすごくビジュアルにこだわるようになったのは、蜷川さんのおかげです。蜷川さんはまず“絵”ありきで、そこから想像力を広げていきました。その影響で、私も“絵”の方が(言葉より)大事という時もあるくらい、こだわりますね。長いこと演出助手jをやりすぎたと後悔した時もあったけれど、すべてが必要な事だったのだと今は思えます」
 
――ミュージカルとはどのように出会われたのですか? 
「個人的には幼いころから音楽が好きで、一時は音大に行って指揮者になろうと思っていました。演劇に傾いたことで音楽からは遠ざかりましたが、俳優になってから、私の好きな“音楽”と“芝居”を結び付けるミュージカルの存在に気付き、演出助手になってから音楽劇やミュージカルに関わるようになっていましたね。 
蜷川さんから“うちに来た仕事だけど、手が回らないからやってくれないか”と言われて、秩父の市民ミュージカルの立ち上げにも携わりました。予算がないので私がテーマ曲を作ったり、ピアノを弾いて歌唱指導をしたり、たくさんの曲を訳詞したり、譜読みしたり。楽しくて、結果的にはいろいろなノウハウが身につきました。 
演出家となってから『コーラスライン』的な作品を作ったり、音楽劇『ペール・ギュント』を上演したりしましたが、認められるようになったのは2013年の『Color of Life』からだと思います」 
ミュージカルが秘める可能性

 ――ミュージカルという表現形態ならではの可能性や魅力はどんなところにあると思われますか? 

「台本を書く身としては、ある心情からある心情へと飛ぶにはものすごく繊細に原稿用紙20枚分書かないといけないのが、音楽だと1曲で出来てしまう、ということがあります。 
もう一つ、演技面で言うと、様々な演技メソッドがある中で、“埋没”していく演技をしていると、それが役への埋没なのか、自分への埋没なのか分からなくなる時があるんですね。俳優にとってナルシズムは絶対必要だと思いますが、それとのつきあいは非常に難しい。でもミュージカルにおいては、はじめから声帯や身体の高度なコントロールが前提なので、感情に埋没しているわけにはいかず、ストレートプレイとは違う集中力を持てることが魅力的です。 
また、今の日本では、ストレートプレイの俳優とミュージカルの俳優に線が引かれてる状況があると思いますが、私はこういう出自だからこそ、そういう敷居を取り除きたい。それができるタイプの人なのではないか、と思っています。海外で舞台を観ていると、喋り声の生生しさ、そこからの歌声のリアルさを感じますが、日本のミュージカルでは、どうしても歌声がまずあって、それに寄せた台詞・演技をすることが多いのではないでしょうか。もうちょっと自分の感情表現の幅を大きくすることで、歌も喋り声も変わってきます。自分が作るときはもっともっと、その作品の枠組みを理解しつつ、ストレートプレイを作る時のように、俳優たちと揺れていきたい。たとえば号泣して喉を傷めた後、歌は歌えませんが、その感情を知っていると、歌声が変わるかもしれません。その可能性を体験してみようよ、と私は言います。 
ミュージカルだからこその表現の幅広さを意識して、俳優自身が枠を広げる。ボイストレーニングやダンスに加えて、台本を読み解くことから生まれる自分の言葉・自分の身体を見直すことで、もっと底知れぬミュージカルの魅力が見つかるのでは、と思うのです。 
舞台は外枠だけでは成立しません。なんといってもそこには人間が必要です。ストレートプレイより大きなジャンプの出来るミュージカルは、大きな可能性を秘めていますが、その大きなことを演じてもらう俳優がスマホに夢中になって本も読まないといった具合に知性も人間性も矮小化していかないように、知らない人の人生に興味をもって感情を揺らしまくってほしい。自分が体験したことのない人生を自分の枠組みの中で理解しないで、他者や社会に想像力を開いた自分自身で演じてもらえるよう、一緒に取り組んでいきたいです」
 
――表現者として、どんなビジョンをお持ちですか? 
「まだビジョンは揺れていますが、演出家になって以来、今の世の中について考えることはたくさんあるものの、私はどうやら、それを常に作品にしていく社会的な作家ではなく、お客さんを楽しませることに喜びを見出す、大衆的なエンタメの人であるようです。 
私は48歳の時、たった一人で小劇場活動を始めましたが、“お客さんがこの数しかいない”という発想では、小劇場は成立しませんでした。私は、劇場はキャパシティに関わらず、“小さな小さな、素敵な社会”だと思っています。この社会で起こりうることは、全世界で起こりうるし、鏡であると。 
いろんな人が集まればいろんなことが起こりますが、出来るだけ嘘をつかないで、みんながいい気持ちというか、この作品は良かったと思えるところにどうやって持っていけるか、ということを考えてやってきて、それは劇場が大きくなっても同じだと思っています。私にとっては小さな劇場で演出するのも、『マタ・ハリ』のような大きな空間で演出するのもあまり変わりはないんです。本作は私の母の死から始まりましたが、たった一人の死から多くの人が巻き込まれる物語が生まれました。物語との出会いはさまざまですが、そこで出逢った社会が素敵であるように。そしてそれが世界のひな型であるように、と思いながら、舞台を創り続けています」
 
(取材・文・撮影=松島まり乃)
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*公演情報『ボクが死んだ日はハレ』10月2日~8日=赤坂RED THEATER 公式HP
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